【友人を喪った日に、毎年のように思うこと:彼が死んだって社会は変わらない 】
2月16日は親友の命日。9回目の命日。
偶然、その日に講演の依頼をいただき、
その友人のことを話すことができた。
友人が死んだとき、世界がひっくり返ったと思った。
こんなに悲しいことが起きたのだから、
こんなに大変なことになったのだから、
彼が勤めていた会社もひっくり返るだろう。
社会も代わるに違いない。
そう思った。
でも、次の日も次の次の日も、
僕は変わらず会社に行ったし、
社会はもちろんその会社も変わらなかった。
(いや、ちょっとは変わったと思いたいけど)
当たり前だ。
彼の死は、たくさんの「よくある死」の中の、
ワンオブゼムに過ぎないんだから。
WORKのみ至上主義者の連中は言うんだろう。
ただ、その当たり前を、自分の子供に適用されても、
あんたは同じこと言えるんかいな。
当たり前で済ませてたまるか。
皆が働きやすい職場、皆が苦しまない働く環境。
全然足りないなぁ。
講演を聞いた方から、
「僕も親として、なにかやりたいと思いました」
と嬉しい感想をいただいた。
自分のやってることは微力でも、
こうやって、少しでも、当事者を増やしていけたらと思う。
悩むのも
怒るのも
泣けるのも
痛いのも
生きているからこそ。
「楽に生きて、長生きする。必要なのはそれだけだ。
最悪な環境から逃げると決めた時は、最高速度で逃げるべきだと思う。
逃げるべき方角は、楽しいもの、愛しい人、得意なこと、あるいはその全部。いつも選んでいた方角とは正反対の方角である。(中略)
それこそが自分を大切にする方法だと思う。壊れずに、かといって何かを維持してて無神経に生きることはない。ちゃんと、繊細に生き続けるのだ」
※F著「いつか別れる。でもそれは今日ではない」より
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