着物、かくまってくれる友人、命綱
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
太宰治 『葉』
太宰の着物に相当するものを私は命綱のようなものと呼んでいる。ただ、私には希死念慮はないから、何か、もう少し柔らかい呼び方はないかと探してもいる。
私の好きな漫画にヤマシタトモコの『違国日記』という作品がある。そこで、主人公の一人が物語について「かくまってくれる友人」と表現していた。一時的な目隠しとなり、現実を遠退け、違う国に連れて行ってくれる友人。そこで生きる気力を回復させ、再び現実に戻ったときに一日をやり過ごすエネルギーを補填させてくれる場所。大宰の着物と似たような概念として、初めは理解した。
ただ、よく考えるとヤマシタトモコの「かくまってくれる友人」が定期的に訪れて、ひと時の癒しと、その後しばらくの活力を与える現実の足場であるのに対して、太宰の着物は数ヶ月先の未来から吊り下げられた命綱であり、互いに異なる役割を担っているように思う。そして日常という壁をよじ登るには、近くにある足場と遠くから身体を引き上げる命綱の両方が必要なのだろう。
数ヶ月先に予定された日本への一時帰国。そこにある何人かとの約束。そうした命綱と同時に、異国生活での足場となる場所を見つける必要がある。没入できる物語や絵画、映画、気を紛らわすための会話ができる知合い。少し遠くに設定された楽しみ(大宰の着物は「楽しみ」と言えるほど積極的なものではないと思うが)と、日常に埋め込まれた気分転換。
命綱にはしかし、少し遠くにある楽しみや希望という意味とはまた違った役割が与えられているとも、朧げながら考えていた。医療人類学者・精神科医の宮地尚子は『傷を愛せるか』というエッセイ集の中で、その考えを明確な言葉に落とし込んでいた。宮地は命綱やガードレールに言及して次のように述べている。
ときどき考えるのだが、命綱やガードレールなどの本当の役割は、実際に転落しそうになった人をそこで引き(押し)とどめることでは、おそらくない。もちろんそういう役割を果たせるように、強度を計算して、材質や形が決められ、つくられているのだろうとは思う。けれど、命綱やガードレールが実際に物理的効力を発揮する機会は少ない。そこにそういうものがあるから大丈夫だと安心することで、平常心を保つことができる。本来の力を発揮し、ものごとを遂行することができる。たいていは、そのためにこそ役立っていると思うのだ。
本来の実力を発揮できるようにするための安全装置。「これがあるから私は大丈夫だ」と、そう思えるための何か。
少し先まで生き延びるための希望である太宰の着物、日常をやり過ごす足場としてのヤマシタトモコの「かくまってくれる友人」、自分を守る何かがあるという安心感をもたらす宮地の命綱やガードレール。それぞれの示す範疇は少しずつ異なりはするけれども、その重なる部分には、個人の精神の支え、という共通項があるように思う。
何年も先に大きな目標を設定しようとか、人生における使命などというものを見つけようとは思えなくとも、こうした着物や友人、命綱やガードレールを手元に集めていくことが、病まずに生きていくための、もしくは病んだままでも生きていくためのコツなのだと思う。