断片

頭と心の整理のために。

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マガジン

  • 分類するなら、多分、詩。

    詩のようなものもの、纏めてます。

最近の記事

雨の歌

窓外に   雨の音鳴り 遠くなる  人々の声、 床にまで  這い寄る冷気 頭内に   群れなす思ひ。 道端に   草木は濡れ 一人臥す  人との対比、 乾涸びし  こころに雨は 降らずして 夢に虹なし。 臥し転ぶ  身体をよそに 細胞は   身勝手に生く、 それぞれに 違える祈り。 雨音は   今や聞こえず、 土の香を  置きて去りたり 雨後の空  鳥は返りぬ。

    • 掛け算の登場

       目の前で、短い指を折ったり伸ばしたりしながら、九九の計算をしている子どもを見ていると、まだ掛け算が登場しかけの世界はどんなふうに見えているのだろう、と思う。  私の頭の中では、掛け算九九は自動化されて久しく、もはや日常生活で九九の意味は立ち上がっていないように見える。買い物をするときなどに「3個入りのを8袋」などと思いながら、「三掛ける八」の意味を考えているのかと言えば、恐らくそんなことはない。「3×8=24」は「さん ぱ にじゅうし」にもなりきれず、「サンパニジュウシ」

      • 俯き加減で歩いていると

        ※若干不快な描写があるかもしれません。 朝 俯き加減で歩いていると 車に轢かれた鼠の死骸 向かう先には市場のゴミ箱 大宴会を目の前に 最期に鼠に過ったものは 喜びなのか 痛みなのか はたまた別の感覚なのか 夜 俯き加減で歩いていると 鼠の死骸のあった痕跡 少し先には市場のゴミ箱 片付けられたその後で それでも地面に残ったものは 執念なのか 恨みなのか はたまた別の感情なのか

        • みじめ仲間を探す夜長に

          失敗して 地面を見つめて帰った夜 身体が眠りに収まらなくて みじめ仲間を頁に探す 失敗して 地面を見つめて帰った夜 眠りが身体を訪れなくて みじめ仲間を絵画に探す 失敗して 地面を見つめて帰った夜 身体と眠りが落ち合わなくて みじめ仲間を映画に探す 頁を捲り 絵画を眺め 映画を流し みじめ仲間はいたけれど みじめの中身は皆それぞれで 夜長 独りで旅をして 東に 光が満ちるとき 暖まった空気に包まれ 身体と眠りはようやく溶け合う

        雨の歌

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        • 分類するなら、多分、詩。
          5本

        記事

          スーツケース文庫

           一ヶ月前の日本への一時帰国時、少し先の未来の自分に向けて、ある仕掛けを用意した。スーツケース文庫である。  日本に住んでいたとき、自身を落ち着かせる方法の一つとして取っていたのが、ふらりと本屋に立ち寄って、あまり頭を使わずに、数冊の本を買うことだった。ハノイに移ってからの数ヶ月間、書店で紙の本が敷き詰められた本棚の間を歩くことや、そこから目についた一冊を選ぶことができないことが、とてもつらく感じた。  そこで、書店で本を選ぶ感覚を擬似体験しようと思い、設えたのがスーツケース

          スーツケース文庫

          三文生活 九月第二週

           数年ぶりに、ある友人の誕生日を祝った。祝ったといっても、メッセージを送り、おすすめのエッセイ集を二冊紹介しただけだけれど。何年も誕生日を祝っていなかったにもかかわらず、「いつもおしゃれなプレゼントくれるね。タイトルから惹かれる。早速買って読んでみる。」と返信がきた。  結婚し、子を産み、離婚し、親権争いをし、と彼女の日常は目まぐるしい。「やだやだ」と言いながら、着々と次の手続きを進めている近況を聞きながら、私が彼女の状況に置かれていたら、絶対にここで倒れたままでいるな、と

          三文生活 九月第二週

          A氏について

           高校時代の友人にA氏というのがいた。  私の通っていた中学から、その高校に進学したのは私一人だけで、他校からの知り合いもいないので、どう友達を作ろうかな、と迷っている間にできた、たぶん、最初の友人である。なぜだかわからないけれど、本人に対しても、他の人との会話で彼の名前が出るときも、私は彼のことを「A」でも「A君」でもなく「A氏」と呼んでいた。クラスが同じだったこと、同じ部活に仮入部したこと、地元が比較的近く、帰りの電車が同じだったこと。こういうことが重なって、私とA氏はす

          A氏について

          三文生活 九月初週

           八月最終日から伏せっている心を引き摺って、今週は旅行に出ていた。正確には旅行に出た日の夜から、心が寝込み始めたのだけれど。  ベトナムの建国記念日で、四連休となっていたので、ハノイから車で二時間ほどの場所にあるニンビンに行った。かつて都が置かれ、今ではいくつかの世界遺産がある。観光地になっているため、家族連れやカップル、友人グループがほとんどで、一人で来た私は余計につらくなった。  観光の目玉は、洞窟や田んぼに囲まれた渓谷を小舟で進むチャンアンやタムコックのクルージング

          三文生活 九月初週

          正常に寂しく、正常につらい

           先日、この人とは関係を続けたいな、と思っていた人との繋がりが切れてしまった。いや、本当はまだ完全には切れてはいないのかもしれないけれど、あとひとつかふたつ、選択を間違えたら、たぶんもうプツンっと切れてしまう。  こんなとき、いつもほつれ目を取り繕おうとして、幾度となく自分の手で人との繋がりがを切ってしまってきた。今度こそは、そうならないようにしよう、となるべくほつれ目をいじらないようにしているけれど、どのみち、糸は自然に切れてしまうだろう。  寂しいな、と思う。同時に、こ

          正常に寂しく、正常につらい

          「立入禁止」になるまえに

           昨日、DIC川村記念美術館の休館のニュースを見て、いつでも行けると思っていた場所がもういけない場所になるのはいったい何度目だろうか、と思った。  子どもの頃、歳を重ねて人生が進んでいけば、それだけ入れる場所や行ける場所は増えていく一方だと思っていた。  小学校高学年のどこかのタイミングで、初めて、親に付き添われずに、隣駅の大きなデパートや商店街に行った。中学に上がると、クラスメートと元旦に、郊外の山へ初日の出を見に行った。高校は実家から電車で通う距離にあったから、定期券の

          「立入禁止」になるまえに

          通じなかった「さようなら」

          異国で馴染みの店ができた。 家族経営で、行くと、ささやかなサービスをしてくれる。 挨拶とお礼だけの心地良い場所。 ある夜、食後、店員さんがやってきて、なにか言いながら両手で「×」を作ってきた。 「明日はお休み」らしいので、わかったよ、と合図して別れた。 次の日店のシャッターは下りていて、その次の日も、そのまた次の日も、シャッターは、下りたままだった。 一週間して、店の工事が始まった。 暫くすると、別のお店ができていた。 あの「×」は閉店を意味していたのですね。

          通じなかった「さようなら」

          ゲイバーの扉を開けて

           八月の前半二週間ほど、日本に一時帰国をした。二、三ヶ月に一度世話になっていた高校時代からの友人の美容師Yに髪を切ってもらった折、せっかくの一時帰国だし、当時の部活のメンバーで集まろう、という提案を受け、数名の同期と新宿で顔を合わせることになった。  私は酒に弱い。全く飲めないわけではないけれど、飲むとすぐに頭が痛くなる体質も手伝って、彼らとの飲みに参加するのは久しぶりだった。学生の飲みの常で、度数の強い酒を強要されることや、ソフトドリンクや水を頼むときに周りから向けられる

          ゲイバーの扉を開けて

          誰のものでもない空間

           私の職場は、ハノイの一画のビルにある。同じ階には、まだテナントの入っていない区画があり、コンクリートが剥き出しの床が、その空間を他のオフィスや廊下から隔てていた。職場を出てすぐ隣の区画であり、立ち入りを禁止するような鎖も立札もないから、一息つきたいときには、その窓際でハノイの空を眺めていた。  職場という、自分の役目を果たさなければ、いることが許されない場所のすぐ隣の、まだ誰のものにもなっていない、自身の存在意義や価値というものを示さなくてもいることができる場所。そんな空間

          誰のものでもない空間

          絵の中の四季を散歩する

           昨年、九月の末である。東京メトロ半蔵門線清澄白河駅を出て、じっとりとした雨を降らせる灰色の空の下を歩き始めた。蒸し暑い空気の塊が身体にまとわりつき、歩を進めるほどに、肌からは汗が噴き出してくる。傘に遮られることのなかった雨粒が、肩や足元を濡らし、そのうちに汗と雨粒の区別もつかなくなる。こんなことなら天気の良い日を選ぶべきだったと、今朝の自分を恨みつつ、私は目的地の東京都現代美術館に急いだ。  デイヴィッド・ホックニーの展覧会が開催されている。現代美術には明るくなく、iPa

          絵の中の四季を散歩する

          通過儀礼としての夢

           子供の頃、熱を出すと、必ず同じ夢を見た。  夢の中では、視界の全てが白黒で、一人称視点と、三人称視点が交互に映し出された。三人称視点で、自分を外から眺めると、私は宙に浮いたメビウスの輪の上にいた。灰色の、凹凸一つない、無機質な道で、左右どちらにも、落ちるのを防いでくれるような手すりはついてなかった。道と書いたが、実際には帯に近いものだったかもしれない。  その帯の外側は、ただ、暗い無が広がっているばかりで、絶対に落ちてはいけないと直感できるような空間だった。  帯の上の私

          通過儀礼としての夢

          祖母からのレッスン

           「後悔、先に立たず」などという言葉は誰もが当然のように知っている言い回しである。でも、この言葉を本当の意味で、実感を伴って理解することは、先に立たない後悔を経験したあとにしかできないのだと知った。  昨年十月、祖母が倒れた。祖父と二人で暮らしている自宅で転倒し、頭を打った。くも膜下出血と脳梗塞を起こして、即ICUでの治療が行われた。治療はうまくいき、難は脱したけれど、もう自分では動くことができない身体になってしまった。認知症も始まりかけていたようで、私が面会に行っても、私

          祖母からのレッスン