第16回・自分を当てはめるイチ
不思議なもので、人間は進化を続け、常に賢くなっていると思う人も多いかもしれないが、どれだけ時代が変わり、どれだけ未来を迎えようと、それでも残酷な事件は起きてしまう。
『まさかあの人が』なんて話は、ニュースの中だけの出来事ではない。
その主人公が『あの人』と感じているのであれば、自分には関係のないことと、その事象から少々距離を取り過ぎかもしれない。
では、『あの人』が『この人』になったら?
この言葉の感じだと、先ほどよりも少し近づいたような気がするかもしれないが、それでもなお、その人物を『他人』だと見立てているならば、それは想像力が足りないと、私は思う。
『この人』とは『あなた』だ。
遠く離れた場所で起きたことであろうと、自分には直接は影響の無い事柄でも、そこに当てはめる人間は、時には『自分』だと考えておくべきだ。
まさか自分が。
よりによって自分?そんなことナイナイ。
本当に言い切れる?
「想像してみて?」そう言われたら人間は、誰でも自分が大事だし、傷つきたくないし、守りたいから、「次は自分が被害者になるかもしれない」「一歩間違えば自分が被害者だったかもしれない」と、どうしても『被害者』へ、その目線を重ねがちだ。
自己防衛の反応だから仕方ないのかもしれないが、それだから同じような事件は無くならないし、繰り返されるのだと思っている。
人間としての弱さの露呈だ。
『まさかあの人が』の『あの人』は、『被害者』ではなく『加害者』としても想像は出来るはずなのに。
例えば、誰かを泣かしたこと、傷つけたこと、それは覚えているだろうか?
それよりも、自分が悲しかったり辛かったり、傷つけられたことの方が、鮮明に覚えてはいないか?
私の中に残る記憶も、圧倒的に後者が多い。
特に子供の頃に負った、思い出という沢山の心の傷は、今でもケロイドとなって残り、私を形成している。
今はその傷と共に生きているから、元の心のカタチなんて気にしてもいないが、こういう性格や人格が出来上がった原因のひとつであることは、間違いないだろう。
おかげで精神的には鍛えられたから、ある意味ありがたいことでもあるけど、私は一生忘れない。一生。
私をいじめてた子供たちのことは忘れないが、大人になったその子たちのことは興味が無いので忘れた。
当時すでに大人だった人は覚えているが。
自分で書いておいてナンだが、過去のことについて何を言っても、記憶や事実が変わるわけでもない。
だからこのケロイドの塊のまま、この先の未来をどう楽しんで生きていくかを考えていた方が有意義だ。
人間は自分にとって都合の悪いことは、記憶から抹消してしまう。
覚えておくべきは、涙を流したことではなく、流させた涙なのに。