第2回・1110文字の中に存在する余白
『1110』という数字の並びは、自分にとって至極思い入れのあるものである。
1足らない『1109』でもダメで、一見並び良く見える『1111』でも、自分にとっては気持ちが悪い。
何故『1110』なのか?という理由については、私のとてもパーソナルな情報が1つ漏れることになり、それによって読み手側に感じて欲しい『想像の機会』を1つ奪い、答えを消してしまうはめになるのであえて伏せるが、別に大した理由でもない。
聞いたら「あ、そう」くらいのもので、これは書き手側だけが特別に感じている拘りであって、読み手側にとってはどうでもよい数字だと思う。
ただ、その答えまでの道筋を省略化してしまうことで、『想像の機会』が無くなるのは避けたかった。
今回の企画で私が大事にしたかったのは、いくつものカケラを拾い集めながら『想像する』ということ。
相手を思い、感じ取り、予想し予測し想像することで、おおよその答えに近づいた時には、より深く身近に感じれるのではないだろうか。
別に私のことを好いて欲しいわけではない。それは誰に対しても重ねられる現象だと思う。
これはただの練習台だ。
推理小説やリアル脱出ゲームのように「あれでもない、これでもない」とピースを当てはめながら想像する楽しみを思い出して欲しい。
そして、私にとっても同じことが言える。
書くこと、伝えることで私にとって読み手側は練習台になる。相手がいると想定し『書く』『伝える』。そこには限りなく『想像』が発生し、楽しんでいられる。お互い様なのだ。
別に対象に対して優しくなれなくてもいい、感情なんて邪魔なものだし、正直どうだって良い。どう思うかが重要で、その過程が結局は自分を作りあげ、自分を知ることにも繋がる。
私の素性や経歴なんて、本来は1110文字も必要とせず伝えられるほど薄っぺらいものだ。
なのにも関わらず、私は自分のことをゆっくりと時間をかけ、何度も1110文字で書き伝えようと決めた。自分を見つめ直し、新たな発見を求めるのだ。
この企画はタイトルの通り、長い長いただの自己紹介である。
言葉にしてしまえば、何事も伝えるのは簡単だ。名前や年齢、性別や出身地、容姿や生業など、ありとあらゆる情報によって個人は構成されている。
疑問に遭遇した時、今の時代ならばネットを使って容易に答えへと導かれるのだろう。
だが、それに慣れすぎてしまった故、答えを急ぎ過ぎる傾向にあると、自身を含め周りにも感じる。レスポンスの悪さは苛立ちの種にもなっている。
そこに出来た隙間を楽しむことや重要性は、効率化・合理化という呪文によって無駄なものとされてしまった。余白を楽しむ行為は、答えを知るよりも深く多角的に理解出来るのに。