第4回・オモシロの現住所
かつてはテレビや映画の中にも『想像』は詰まっていた。
それは憧れであり、ファンタジーであり、夢であり、現実でありながらも一切の現実は無かったようにも思える。
今では信じられない話かもしれないが、昔はテレビを買ったとなれば、家族だけでなく近所中の人間が集まり、全員が一点を見つめながら一心不乱に歓喜し興奮し感動をする光景があったそうだ。
中には何処の誰だかもわからない人間が混ざり込んでいたとて、その場の空気は同じように震え共鳴したのだろう。
とにかく皆んなが自分をそこに投影し重ね合わせることで、「いつか自分も」と希望を持たせてくれるモノだったのだと思う。
きっとあの頃の人達は、現代人よりも『想像する方法』を知っていたし、上手に使いこなせていたはずだ。
しかしテレビは、どの家庭にも普及し身近なモノになるにつれ、特別な魔法の箱ではなくなった。
あれもこれも作られたモノだと、嘘と幻想をつなぎ合わせたモノだと、箱の中の想像にイチイチ向き合わなくなった。
理想と向き合うことは、現実を知ってしまうこと・実感してしまうことだと、自分の現状を卑下するようで耐えられなくなったのかもしれない。
やがて現実のルールを当てはめ、それから外れているのはいけないことだと求めるようになる。
少しでもそこに生まれる格差を乱暴に見つけ出し、クソ真面目に削り取り、丁寧にヤスリで磨くことに力を入れ始めた。
それは箱の中の世界も同じで、いつの間にか夢を魅せるモノから、ただ利益を追いかけるモノになってしまった。
利益のためなら、悪質な嘘を作り出し、そちらに誘導さえした。
憧れの目で見つめる人々が培った『想像する』という能力は、ただ利用されるだけになってしまったのである。
どちらが先だったのかは分からない。
ただそこに『相手』が居なくなってしまったのは事実だ。
互いが『自分』だけを見るようになったのである。
一方で映画はリアルを求め過ぎたあまり、作り込んだ嘘ばかりを並べた。
進んだCG技術は、何もかもを作り出すことに成功し、今まで『想像という力』で補ってきた世界までも具現化してしまった。
「凄い」と感じるのは最初だけだ。
慣れてしまえば、そこに目を向ける事さえ省略してしまうようになる。
情報が多くなったあまり、情報が少なったとも言えるだろう。
こうやって、面白かったモノは、つまらないモノになってしまった。
いずれこの現象はインターネットの世界にも訪れるだろう。
もしかすると、もうすでに始まっているのかもしれないが。
とにかく人々は、『想像する』という手間を、奪われたし、放棄もしたし、無駄なモノとして忘れつつある。
本当のオモシロは魔法の箱の中に在るのではなく、自分の中に在るのに。