41.吊橋の起源について
まず橋の起源について
橋の起源については、川を渡るために飛び石を利用したり、川をまたいだ風倒木の上を動物が渡るのを見て考え出された。また、猿の群れが深い谷を渡るときのモンキーブリッジを見て、谷を渡る方法として考え出されたなどの諸説がある。
いずれも想像の域を出ないが、人類が自然の中で情報を収集し、橋というアイデアを見つけ出したことは間違いないであろう。これを積極的に発展させて利用したのが、石橋、板橋、吊橋へと発展したと考えられる。その背景には、川や谷を渡る必需性があったことはいうまでもない。
中でも、ロープ1本で対岸に渡れるモンキーブリッジは、現代でも消防救助技術訓練の一環で行われており、有効であることは間違いない。しかし、ロープ1本では、誰もが簡単に谷を渡ることは難しい。まして荷物の運搬となれば困難を極めた。
モンキーブリッジの言い伝え
山梨県大月市の相模川上流の桂川に|甲斐の猿橋《かいのさるはし》が架けられている。甲斐とは甲斐の国、今の山梨県である。
浮世絵師の歌川広重が「甲陽猿橋の図」を描いたことで良く知られ、1932年(昭和7年3月)に国の名勝に指定された。富士山の溶岩流により川幅が狭められた特殊な地形に架かる橋である。
この猿橋の脇には「白猿の霊像」と「三猿塔」がまつられ、「猿橋」の由来が記されている。奈良時代、水面からの高さ約30mの位置に木造橋「猿橋」が架けられたのではなく、最初は吊橋であったと考えるのは想像が過ぎるであろうか?
水面から10.6mの高さに架けられた木造橋の「日光の神橋」については、次の言い伝えが知られており、この逸話から、当初、「神橋」は蔓類を使った吊橋ではなかったかと想像が膨らむ。
766年(天平神護2年3月)、下野の人沙門勝道一行が大谷川を渡ろうとした折、一人の神人が現れ、手に持つ蛇が対岸とを結んで橋をつくり、背に山菅(龍のひげ)が生えたので、一行は急流を渡ることができたとの話が伝わる。|山管の蛇橋《やますげのじゃばし》とも呼ばれる由来である。
モンキーブリッジの進化形
ロープ1本で対岸に渡れるモンキーブリッジであるが、ロープの本数を2本、3本、4本、・・・と増やすことで、人の渡過は容易になる。
人類は創造的思考力を高めることで、誰でも、簡単に荷物を運ぶことができる渡河乗り物を発明した。
写真4には、奈良県十津川村に昔から伝わる人力ロープウェイ「野猿」を示す。
両岸から川の上に張った2本のワイヤーロープで滑車を介して吊り下げられた「やかた」に乗り、自力で引き綱をたぐり寄せて移動する。猿が木の蔓を伝って行く様子に似ていることから、この名がつけられた。
吊橋の原型は?
1833-1834年(天保元年)頃、葛飾北斎が「諸国名橋奇覧・飛越の堺つりはし」を描いている。
「飛越の堺つりはし」を復元した2本のロープを張った上に床板を並べた吊橋を、岡山県倉敷市の味野公園で見ることができる。この吊橋の下には、落下防止網も設置されている。「飛越の堺つりはし」でも網らしきものが描かれており、バランスを崩して落ちる場合もあったと推測される。
一方、四国の徳島県三好市には、国指定重要有形民俗文化財である「祖谷のかずら橋」が残されている。急峻な四国山地の奥深くに位置する祖谷地域は、近代まで外部との交通が隔絶され、平家の落人伝説が伝わる。
自生するシチクカズラ(サルナシ)を編み上げて架けられた吊橋である。両岸から川の上に張った5本の「敷綱」には床板となる「さな木」が固定され、転落防止のため両脇に張られた「壁綱」も引張力を分担している。
深山渓谷地帯の唯一の交通施設であり、3年毎に架替えが行われている。
現在、国内外を含めて年間30万人の観光客が渡る「祖谷のかずら橋」であるが、この吊橋に長い年月を経て様々な工夫が盛り込まれているようである。次に、「祖谷のかずら橋」について詳細を観てみよう。
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