伊藤義康
人類の三大発明といえば、「道」「階段」「橋」である。中でも、橋は、河を渡るための手段として始まり、創造的思考に基づいて様々な発展を遂げて現在に至っている。その架橋の歴史と美しい姿は、多くの人々に感動を与え続けている。
橋とは、「交通路・水路などが、河谷・くぼ地その他、これら道路の機能を阻害するものに突き当たった場合に、これを乗り越える目的をもって造られる各種の構造物」と、土木学会編纂『土木用語辞典』に定義されている。 古(いにしえ)の時代に、水に濡れずに河川、湖沼などを渡るという問題を解決するために、人類が考え出したアイデアである。 橋の起源に関しては、川を渡るために飛び石を利用したり、川をまたいだ風倒木の上を動物が渡るのを見て考え出された。また、猿の群れが深い谷を渡るときのモンキ
吊橋に起きたイノベーション 当初は技術的な問題もあり、架橋は中小河川に限定されていた。その後、産業・交通の発展に伴い大河川を渡る橋の必要性(需要)が高まり、様々な”橋の形式”と”構造材料”の開発が進められた。 19世紀に入ると、交通機関の発展と経済性の追求から、大河川に加えて海峡、湾岸、湖など長いスパンを渡る橋の需要が急速に高まる。従来から主に船舶が使われてきたが、代替である道路・鉄道橋の登場に期待が集まった。 アーチ橋のさらなる長大化を可能とした”高強度鋼”の
吉野川上流の祖谷川に架かる蔓橋 急峻な四国山脈に位置する徳島県三好市の祖谷地域には、屋島の合戦に敗れて逃れた平国盛と安徳帝の一行が土着したとの平家伝説が伝わる。近代まで外部との交通が隔絶されていたために、中世以来の生活様式や独特の風俗が原形に近い状態で残されている。 西祖谷の山村善徳を流れる祖谷川には、国の重要有形民俗文化財に指定された吊橋の「祖谷のかずら橋」が架けられている。自生するシラクチカズラ(サルナシ)を編み上げて作られたのが、名称の由来である。 ただ
まず橋の起源について 橋の起源については、川を渡るために飛び石を利用したり、川をまたいだ風倒木の上を動物が渡るのを見て考え出された。また、猿の群れが深い谷を渡るときのモンキーブリッジを見て、谷を渡る方法として考え出されたなどの諸説がある。 いずれも想像の域を出ないが、人類が自然の中で情報を収集し、橋というアイデアを見つけ出したことは間違いないであろう。これを積極的に発展させて利用したのが、石橋、板橋、吊橋へと発展したと考えられる。その背景には、川や谷を渡る必需性があ
江東区の都市景観構造物指定 江東区は、水路が巡る街である。その特徴を活かすため、2004年(平成16年8月)に都市景観重要建造物として「亀久橋」、「福壽橋」、「東富橋」、「萬年橋」の4橋を指定した。今後、指定された橋を保全し、景観形成に活用していく試みである。 この4橋は、関東大震災後に震災復興事業により架けられた橋である。架橋からほぼ100年を経過し、多くの震災復興橋が架け替えにより消滅したが、一部の鋼橋が改修や補修を重ね、現在の都市交通を支えている。 また、
ドイツのウエストファリア自然史博物館 2億5千万年前に始まる中生代のジュラ紀と白亜紀の主役は、何といっても巨大な「恐竜」であろう。比較的温暖な時期が続いたことで、爬虫類が大繁栄した。 人気が高い肉食恐竜の「ティラノサウルス」は、全長:約13m、体重:4.5~8トン、また、植物食恐竜の「アルゼンチノサウルス」は、全長:30~40m、体重:50~100トンと規格外の大きさが注目を集める。 ドイツ北西部の都市ミュンスターにあるWestfälische Museum f
隅田川に架かる永代橋 現在の「永代橋」は、関東大震災復興事業として架けられた。架橋当時に隅田川の最下流にある第一橋梁であったため、首都の入口にふさわしい重厚なアーチ橋が採用された。 また、3年後に上流に架橋された第二橋梁の「清州橋」には、対照的な吊橋が採用された。この2橋は震災復興のシンボル的な位置付けとされたた。 永代橋はドイツのライン川に架かるレマゲンのルーデンドルフ橋を、対となる清洲橋はケルンの吊橋を模したデザインとされる。しかし、ドイツの両橋はともに第二次
明治時代に始まった「四谷見附橋」の建設 四谷見附とは、江戸城の外濠に設けられた城門のことであり、江戸城から甲州街道に通じる要衝の地であった。 明治時代に入り、東京市は区改正事業の一環として、この地に外濠と鉄道をまたぐ「四谷見附橋」の建設に1911年(明治44年3月)着手し、1913年(大正2年10月)に完成した。橋の東側は千代田区、西側は新宿区となる。 完成時の「四谷見附橋」は、橋長:34.138m、幅員:21.946m、支間長:34.138mの上路式鋼製の2ヒ
新山下運河に架かる「霞橋」 横浜市中区の新山下運河に架かる霞橋は、下路式プラットトラス橋である。 橋長:32.96m、幅員:6m(車道:4m、片側歩道:2m)、高さ:9.36mの道路橋である。 プラットトラス構造とは、斜材が中央に向かって下向きに配されているトラス構造のことで、斜材が主として引張力を受け、短い垂直材は圧縮力を受ける美しい対称形の橋である。 幅30mたらずの小さな運河には単純桁橋の多い中で、なぜ、10mほどの背の高いプラットトラス橋が架けられている
日本における最初の鉄の橋は? 江戸時代末から明治にかけて、文明開化の一環として鉄材を使う橋の建設が始まった。 初の鉄橋は、1868年(慶応4年8月)に長崎市内を流れる中島川に架けられた「銕橋」であった。木造橋が水害で流された跡地に、橋長:約22m、全幅:約6mの錬鉄製の1径間桁橋が架けられた。 現在は、1930年(平成2年)に3代目となる鉄筋コンクリート橋に架け替えられているが、欄干には「鉄の橋」の銘がある。 二番目の鉄橋は、1969年(明治2年)に横浜開港期の
ドニプロー川に架かるパトン橋 ウクライナの首都キーウには、パトン電気溶接研究所(E.O.Paton Electric Welding Institute)がある。英国溶接研究所(TWI)、米国エジソン溶接研究所(EWI)と並び称される著名な溶接の研究所である。 キーウのドニプロー川に架かる「Mist Patona(パトン橋)」の名称は、設計と建設に関わったパトン電気溶接研究所の所長であったEvgeny Paton(エフゲニー・パトン)が由来で、全溶接橋として設計・架
スウドヴァヤ川に架かるマウジツェ橋 「Most w Maurzycach(マウジッツェ橋)」は、ポーランド中部のズドゥニ市マウジツェ村にあり、スウドヴィヤ川に架かる田舎の地味な橋である。 しかし、この橋はリヴィウ工科大学教授のStefan Bryla(ステファン・ブリワ)の設計による鋼鉄製で、欧州初の全溶接橋である。1928年12月に完成し、翌年8月に開通した道路橋である。 「マウジッツェ橋」は、上部がアーチ状の曲弦トラス橋で、橋長:27m、幅:6.2m(車道:
ライン川に架かるホーエンツォレルン橋 ドイツのケルン中央駅南端を南北に流れるライン川に架かるHohenzollern Bridge(ホーエンツォレルン橋)は、技術者のFritz Beermann(フリッツ・ベーアマン) とFreidrich Dirkson(フリードリッヒ・ディルクソン)の設計で、1911年5月、皇帝ヴィルヘルム2世により開通した鉄道/道路橋である。 当時ドイツを統治していたホーエンツォレルン家が、名称の由来である。 アーチの端部を弓のように弦
エルベ川に架かる美麗なロシュヴィッツァー橋 ドイツ・ドレスデンのエルベ川に架かるLoschwitzer bridge(ロシュヴィッツァー橋は、橋長: 280m、幅:12m、高さ:24m、最大スパン:147m、総重量:約3800トンの鋼鉄製の片持ち梁トラス橋である。 淡い青色の塗装が、周囲の赤い屋根、緑の木々と良く調和している。 土木技術者であるClaus Koepcke(クラウス・ケプケ)とHans Manfred Krüger(ハンス・マンフレッド・クルーガー)
鋳鉄から錬鉄への進化 一般に、鋳鉄には2.5~4.0%の炭素(C)を含んでおり、ケイ素(Si)の含有量が多いと黒鉛(グラファイト)塊が析出する。溶けた鋳鉄を鋳型に流し込み凝固させる時に収縮するが、黒鉛塊は膨張するために鋳型に近い鋳物を造ることができる。 鋳鉄は炭素含有量が多いほど、鋳造し易く、被削性に優れ、硬さ、耐摩耗性、圧縮強度は高くなる。しかし、延性や靭性(脆さ)は低く、溶融温度が高くなる傾向にある。 特に、炭素量が2%を超えた鋳鉄は強度は高いが脆いため、炭素
鋳鉄アーチ橋から木造アーチ橋への道 15~16世紀に入ると、石造り「半円アーチ橋」から「扁平円弧アーチ橋」への技術革新が生じた。半円アーチ橋では橋の高さが径間(スパン)の半分となるが、扁平円弧アーチ橋では橋の高さを抑えてスパンを長くできる。 このような偏平円弧アーチ橋への移行を可能とした裏には、アーチ橋の設計技術の大きな進歩があった。 一方、欧州では15世紀に入ると「木造橋」の建設も活発化し、17~18世紀に最盛期を迎える。それまで主流であった石造りアーチ橋