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42.古来の吊橋を旅するー祖谷のかずら橋



吉野川上流の祖谷川いやがわに架かるかずら

 急峻な四国山脈に位置する徳島県三好市の祖谷地域には、屋島の合戦に敗れて逃れた平国盛と安徳帝の一行が土着したとの平家伝説が伝わる。近代まで外部との交通が隔絶されていたために、中世以来の生活様式や独特の風俗が原形に近い状態で残されている。

 西祖谷の山村善徳にしいやのやまむらぜんとくを流れる祖谷川には、国の重要有形民俗文化財に指定された吊橋の「祖谷のかずら橋」が架けられている。自生するシラクチカズラ(サルナシ)を編み上げて作られたのが、名称の由来である。

 ただし、現在は安全のため主要部には鋼製ワイヤーが仕込まれており、シラクチカズラで覆うことで昔の姿を再現している。橋長:45m、全幅:2m、谷からの高さ14mのスリリングな人道橋である。 

写真1 祖谷川に架かる「祖谷のかずら橋」の出口側、現在、橋は一方通行

 かずら橋は、両岸に自生する樹木計4本が中心的役割を担っている。出口側の写真から分かるように、樹木2本を「かさ木」で連結し、通路幅に2本の柱「とり木」を立てて橋門構きょうもんこうとしている。

 「とり木」の足元に結び付けた「よこ木」と対岸の「よこ木」の間には、約30cm間隔で鋼製ワイヤー「敷綱」5本が並行に張られている。この「敷綱」の上には10cm角の「さな木」が、約20cm間隔で取り付けられて床版となっている。そのため川面が透けてみえる。

 また、4本の樹木の高い位置からは、各2本で合計8本の「雲綱」を使って橋の中央部を斜めに吊り上げている。さらに両岸近くでは、通路を水平近くに保つため岸から伸ばした2組のぶち木」で吊り上げる工夫が施されている。

 「祖谷のかずら橋」は、吊床版橋つりしょうばんきょうの原型である。雲網を使った斜張橋とも見えるが、雲網が直線的に張られていないため吊り上げ効果は弱い。
 現代の巨大吊橋(吊床版橋)は通路を水平に保つため補剛桁が使われているが、かずら橋は中央部が垂れ下がっているのが特徴である。

写真2 約30cm間隔の「敷綱」の上に「さな木」が約20cm間隔で取り付けられている

かずら橋の架け替えについて

 「祖谷のかずら橋」は、使われているシラクチカズラが雨や風で傷むため、かずら橋保勝会により1955年(昭和 30年)以降は3年に一度の架け替えが行われてきた。最近では2024年2月に架け替えが終わり、恒例の渡り初めが行われている。

 架け替え作業は農閑期で、シラクチカズラが水を吸い終わる秋以降に直径2cm以上、長さ5~10m程度を目途に約6トン調達される。先に太いもので雲網を編み上げておき、1月中旬~2月にかけて現地での編み上げ作業が進められ、伝統の技術継承が行われている。

 現地での作業は、旧橋のシラクチカズラを手作業で取り除き、鋼製ワイヤーとさな木だけの状態とし、編み上げられた雲網を、両岸に自生する杉の大木(高さ:27~29m)の3/4程度の位置に括りつけることから始まる。

 次に、前もって蒸気で蒸して柔らかくしたシラクチカズラで、壁綱の鋼製ワイヤーへ巻き付けを行い、壁綱はとり木にしっかりと結びつける。さらに壁綱とさな木を固定する。

図1 「祖谷のかずら橋」の構造説明 出典:三好の魅力発信マガジンVol.1(2016年4月)

奥祖谷おくいや二重かずら橋

 西祖谷の「祖谷かずら橋」から、さらに祖谷の奥へとバスで1時間ほど行くと、東祖谷菅生ひがしいやすげおいを流れる祖谷川に奥祖谷おくいや二重かずら橋」が架けられている。

 訪れる人も少ないこの奥地にひっそりと佇むたたずかずら橋は、平家一族が剣山つるぎさんの「平家の馬場」に通うために架けられたと伝わる。男橋おばし女橋めばしと呼ばれる2本の吊り橋があり、夫婦橋めおとばしとも呼ばれる。

 安全のために鋼製ワイヤーが使われており、シラクチカズラで覆うことで昔の姿を再現しているのは、善徳の「祖谷のかずら橋」と同じである。

 下流側にある現在の「男橋」は1984年に架橋され、橋長:44m、全幅:2m、高さ:12mで、両岸に主塔を立てメインケーブルを渡し、吊床版をサスペンダー・ケーブルで吊り上げる構造である。
 メインケーブルの両端は、両岸の地中に埋められたアンカーに固定されている。すなわち、現在の「吊橋」とほぼ同じ構成である。

写真3 奥祖谷二重かずら橋の「男橋」

 上流側にある現在の「女橋」は1970年に架橋され、橋長:22m、全幅:1.5m、高さ:5mで、両腕を伸ばすと壁綱をつかむことができる優しい橋である。「祖谷のかずら橋」とは異なり、現在の「吊橋」とほぼ同じ構成である。

写真4 奥祖谷二重かずら橋の「女橋」

かずら橋の歴史

 かずら橋についての最古の記録は、江戸時代1646 年(正保3年)の「阿波国図」で、祖谷地域に7カ所が記されている。
 また、1657年(明暦3年)の「阿波国海陸度之の帳の写」の祖谷紀行には、13カ所のかずら橋があったとされる。
 さらに、1793年(寛政5年)の祖谷紀行には、「祖谷に十三の蔓橋有 善徳の橋を第一とす」とある。善徳とは、現在の「祖谷のかずら橋」が架かる祖谷川右岸側にある集落である。

 1811年(文化8年)の版画には、善徳のかずら橋が描 かれ、雲網くもあみ腕木ぶちきで支える構造は現在と同じである。
 1838年(天保9年)作成の天保国絵図(阿波国)では、松尾川と祖谷川と思われる川の13カ所に橋が確認され、その多くの橋の両岸には大木が描かれ、橋は垂れ下がった様子で描かれている。

 1880年(明治13年)編さんの美馬郡誌には、善徳の橋の他に8カ所のかずら橋があり、1911年(明治44年)の調査でも、善徳橋(長さ:二七間三尺(約49.9m)、幅:五尺(約1.5m)、高さ:十三間(約23.6m))など8カ所のかずら橋が認められた。

 1920年(大正9年)、三村組合道路(現在の県道32号線)が 完成し、旧池田町から祖谷川沿いに旧東祖谷山村まで車両通行が可能となり、祖谷地域の近代化が急速に進められた。その結果、多くのかずら橋は橋床に板材を用いた現在の針金吊橋に架け替えられた。

 1923年(大正12年3月)、安全性の面から善徳のかずら橋が、板敷きの針金吊橋に架け替えられ、祖谷地域のかずら橋は全て消失した

 1928年(昭和3年3月)、かずら橋復活の機運が高まり、当時の池田町長の田原作太郎は祖谷渓保勝会を組織し、善徳青年団長の片山頼政などの協力を得て、針金吊橋の下流側に古来から伝わるかずら橋 を再現した。

 生活橋から観光橋へと変わったが、過ってのかずら橋のイメージを損なうことなく、観光客の安全のために雲網など主要な部分に鋼線ワイヤーを使い、「とり木」なども太い木材を使い強度向上を図り、昔は枝の上面を削って平らにしていた「さな木」も角材が使われている。

 特に、安全対策には注意が払われ、敷綱は地中に埋設したコンクリート製のアンカーブロック(縦1m×横1m×幅3m、重さ:7トン)に定着された。敷綱の鋼製ワイヤーは、当初の直径14mmから、1979年(昭和54年1月)の架け替え時に18mmに強化された。
 さらに、1988年(昭和63年1月)には、アンカー橋台(アンカーブロック)を新たに作り直し、アンカー橋台をアンカーで地中の岩盤に固定するグラウンドアンカー工法が追加された。グラウンドアンカーは左右岸4本ずつ施工され、鋼製ワイヤーも直径22mmに強化された。

 1966年(昭和41年)、復活したかずら橋の下流40mの位置に、鋼製の上路式方杖ラーメン橋の「祖谷渓大橋」(現在は歩道)が建設され、生活橋であった針金吊橋は廃橋となった。その後、1989年(平成元年1月)、「祖谷渓大橋」に並行して下流側に鋼製の3径間連続方杖ラーメン橋の「新祖谷渓大橋」(橋長:52.1m、有効幅員:5.0m)が建設された。

(参考)斜張橋と吊橋について

 現在は、鋼製ケーブルを使った代表的な橋として斜張橋しゃちょうきょう吊橋つりはしが知られている。いずれもケーブルが主体である広義の吊橋であるが、明確に区別されている。

 「斜張橋」は、主塔から斜めに張られた直線状のケーブルで主桁を吊り上げて支える構造である。主塔頂点から放射状にケーブルが張られたのがファン型、ケーブルが並行に張られたのがハープ型と呼ばれている。
 吊橋のように、アンカーレッジを必要としない特長を有する。

 「吊橋」は、主塔の間をわたるメインケーブルから垂らしたサスペンダー・ケーブルで主桁を吊り上げ支える構造である。ケーブルは自重により垂れ下がり、懸垂線と呼ばれる曲線形状を示す。
 一般にはメインケーブルをアンカーレッジに固定する形式が使われる。アンカーレッジを使わず、ケーブルを主桁の両側に固定する「自定式吊橋」も使われるが、主桁に大きな圧縮力が作用するため、補剛桁が使われる。

図2 斜張橋と吊橋の基本形式

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