新宿ララバイ
(これは、以前私のFaceBookに投稿した記事のコピーです)
先日、いつも良くしていただいている埼玉大学のF先生がFacebookにて、ちょっと面白そうな企画の構想を述べておられました(物凄く端的に言えば、現代版「生活綴方」と音楽の融合、みたいな)。またこれも同じ日に、僕のパートナーがたまたま歌舞伎町を通ったらしく、そこで色々と感じることがあったそう。
こういう色んな偶然が重なり、僕が大学1年生のときに思いついたある構想が蘇ってきました。もっとも、この構想自体が後の僕の「生活綴方教育」の関心への門戸だったりします。
以下、その構想です。
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簡単に言うと、歌舞伎町シネシティ広場にたむろする青少年(俗に言う「トー横キッズ」)たちに作文を書いてもらい、僕の撮った歌舞伎町の写真と織り交ぜて本を作る。
歌舞伎町という日本一の歓楽街は、暴力や窃盗、恫喝、性犯罪、薬物取引、様々な犯罪の温床であることは言うまでもない。そしてこの場には、少なからず青少年(特に中高生、中には小学生も)も集まる。これまでにも何人もの若者が逮捕され、救急搬送され、血を流した。むろん、命を落とした者もいる。報道では、やはり青少年の問題行動、犯罪行為が取り上げられ、トー横キッズに対して世論は良い印象をもたない。
しかしながら、彼らを歌舞伎町から追い出すとか、家に帰すこと自体を目的とするような歌舞伎町の浄化は、うかつに踏み切ってはならない。これはきわめて「大人の事情」であり、本質的な解決には至らないどころか、ことは悪化することもある。
虐待や家庭の不和、いじめ、貧困、実に多様な事情を持った子どもが、心身の傷を隠し、普通を装うことに疲弊してしまっている。家にも学校にも居場所が無い、信頼できる大人もいないという子どもたちにとって、歌舞伎町というのは重要な「居場所」である。そういう彼らが、「常識」という監視の目から逃れ、認め合える者同士が対等に認め合う場としてやってくる。歌舞伎町という小さな社会の独自の文化の中で、もがきながら彼らなりの社会生活を送っている。彼らも深層心理では、本当はずっとこんなところにいてはいけない、いつかは健全な場に戻らないといけないと考えているのではないだろうか。一方で、自分には無理だ、どうせここで死ぬのだ、と悲観的にならざるを得ない現状がある。歌舞伎町がなくなったら、自分も死ぬしかないのだと。
そこで僕は、ぜひ「トー横キッズ」とよばれる彼ら一人ひとりと「対話」をしたいと思う。彼らと少しずつでも意思疎通を積み重ねながら、誰にも言うことのできなかった彼ら自身の意識、叫びを、同じ人間という立場で拾う。最終的に、彼らには彼ら自身の事実、あるいは実感に基づいた文章を書いてもらう。技巧的でなくても、読みにくくても、整っていなくてもいい。そこに彼らの、「言いたかったけれど誰にも言えなかった」ことが、なるべくそのまま残されることが良いのだ。僕は彼らに、多少は作文の書き方を教えるかもしれないが、それは彼らの「自問自答」を支えるにすぎず、そこから出力される彼らの表現は、まぎれもなく彼らのオリジナルである。もしそれで、彼らの中で長いこと詰まっていた何かを取り除き、流れを良くすることができたなら、それが僕の本望である。もちろん、僕の提案に彼らが価値を見出さないならば、無理強いはしない。あくまで本人が、本人にとって良いと思ったなら、協力してくれると嬉しい。
「作文を書く」というと稚拙に思われるかもしれないが、表現活動には高次の思考が求められる。頭ではなんとなくわかっているけれど、いざ文章にしようとすると上手くいかないという経験をお持ちの方は多いと思う。今回のこれも、狙いはそこにある。頭の中に存在はするけれど、いつの間にか有耶無耶にされてしまった色んな感情や夢に対し、弁証法的に今一度自身で深く問いかける。そうして自分とはいったい何者なのか、何を考えているのか、表現することで初めて自分で気づくこともあるはずだ。それはもしかしたら、誰にも見せられない、自分でも見たくないような深い傷に一時的に触れることになるかもしれない。しかし、そういうことも全部ひっくるめて、あなたはよく頑張っている、あなたは悪くない、と認めてくれる大人もいるということを、同時にその場で感じてほしいと思う。僕の前ではどんなことを言ってもあなたを責めたりはしないということを保証したい。だから思う存分、あなたの感じていることを、できるだけそのままに、書きたいだけ書きなぐってみてほしい。
僕は彼らを見世物にしたいわけでもないし、彼らの辛い過去を徒に掘り返そうとするわけでもない。また同情や物的支援も目的としていない。あくまで彼ら自身が持つ本来の生命力を想定し、それを邪魔していたものを取り除くのみである。
また、法的あるいは社会通念的に問題になるような行為を正当化する理由にはならない。悪いことは悪い。しかしながら、「彼らをそうさせているのは、(広義の教育者としての)大人の側にも責任がある」という考え方もできるだろう、という意識である。
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そんなわけで、大学1年のころ考えていたことを、なるべくそのまま文章に起こしてみました。実行しようにも、倫理的なこととか色んな問題が絡むので今の今まで手付かずでいます。ただでさえ今は別の本を書いていて(ちゃんと書いてますよ!)、しかも色々立て込んでいてなかなか踏み切れずにいます。でも、ある感性をピンポイントに刺激される出来事が重なったここ数日、またこの構想への熱が再燃してきました
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