(仮説?)「普通」を信仰する透明人間?
自分の中で、作り上げた「普通」を信仰して、自分の気持ちを捨てる
「普通」というものは、論理値としては、あるかもしれないが、そんなものは、現実にはないだろうと
自分の気持ちを棚に上げて、捨てて、「普通」を信仰することになれて、自分の気持ちを見失うこと
気持ちを見失えば、何も考えずに、テレビやゲームを長時間することは、可能だろうと
「普通」になればよいとか、偉い方に、従っていればよいとか、はいはい言っていればよいとか、(自己観念である)「普通」に、従順になること
確かに、トラブルなどは、回避できるかもしれないが、自分は何がしたいとか?
死ぬまで、テレビが見たいの? ゲームがしたいの? 本心から、そう思うなら、それは、それだが
私から見ると、自分を見捨てた、絶望感を感じる。それは、親からの影響かもしれない、昔の昭和の観念なのか、自分の心を滅することでしか、生き延びれないとか
弊害として、今、何も考えずに(何かは考えてると思うが)、多くの老人(一部の老人は)は、透明人間のように(自分の心を見失った?)、「普通」を信仰してるのか。。。
それを子に、直接的なのか、間接的なのか、押し付けては
或いは、社会に押し付けては
停滞を招くか、変かを拒むか、そもそも、「普通」を信仰してるだけか?
…φ(・ω・`)