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【生きのびる日記】どうして書かねばならないのか

今年の年末年始休暇は長いらしい。でもそれは勤め人や学校に通う人用の話であって、フリーランスのわたしにはあんまり関係ない。クライアントさんからの連絡が減り、音が少なくて、空気が澄んでいる気はするけれど。だいたいいつも通りの日を過ごした。

今日の動きはこんな感じ。

  • 今週の予定を立てる

  • お店に自著を置いてもらえるかも?のオンライン打ち合わせ

  • Discordのインストールとクライアントさんへの連絡

  • ソファでお昼寝

  • 営業用のサンプル記事(農的暮らし系)の作成

とくに印象的なのは、ZINEを取り扱うお店にわたしの本を置いてもらえるかも?という件の打ち合わせ。

実際に置いてもらえるかはまだ分からないけど、本を使ってつながりやコミュニケーションが生まれたこと、それ自体が嬉しい。世界の中にひとつ、座ってもいい椅子が増えたような気持ちだ。

打ち合わせ相手が「作家さんが〜」という言葉を使った時に、「そうか、わたしはもう作家といえば作家なのか」と驚いた。「いつか作家になれたら」と思っていたが、たとえ自費出版だとしても、作家といえば作家。誰に頼まれるわけでもなく、とにかく形を作ってしまえば、それになれる。そういう肩書きや職業は、けっこうあるのかもしれない。

お話しする中で確認できたことがある。それは、やはり「書くこと」を仕事にしていたいし、「書くこと」を通じて人とコミュニケーションを取っていたいこと。そして「書くこと」を通して人の居場所を作りたいこと。

なぜ「書くこと」にこだわるかといえば、それ以外のことがろくにできないからだ。「書くこと」が特別うまいわけじゃない、消去法。

書くたびに語彙力の乏しさや比喩表現の下手さ、構成の甘さ、情景描写の少なさ……あらゆることに足りなさを感じる。それでも「しゃべる」とか「人と上手くやる」とかに比べたら、圧倒的に「書くこと」の方が気楽にできる。できないことだらけの中で、唯一普通にできることが「書くこと」なのだ。だから手放すわけにはいかない。

人とコミュニケーションを取ることは好きなのに、どうにもしゃべることが苦手だ。しゃべりで伝えようとすると、思っていることの2〜3割しか言葉にできないような気がする。

毎週水曜日に配信中のPodcastを聴いてみると、わたしは間の取り方がおかしい気がする。相手の言葉に対する反応が鈍く、要領を得た返しができていないように思う。アルバイトで触れたことのある接客も、対人援助職も、なんか上手くできないんだよなぁ。人と関わっていたいのに。

そんなときに便利なのが「書くこと」だ。noteや本に文章を書いておけば、誰かがそれを読んでくれて、感想をもらえたり、声をかけられたりする。そういうコミュニケーションであれば、わたしがどんな人なのかを分かってもらった上で交流が始まるから気楽だ。「まともな人」の顔をしなくて済む。

「書くこと」を通して人の居場所も作りたい。本のある空間づくりでもいいし、Web記事の連載でもいい。このnoteでもいい。「書くこと」や本を通じて、何かに殺されかけている心を少しだけ大丈夫にしたり、一緒に足踏みをしたり、そのままでいいことを伝えたり、死にたい気持ちを1ミリでも誤魔化したりしたい。

学生の頃はずっと心が辛くて仕方なかったが、本や言葉を通して「この世にはわたしに似たことを考えてる人がいるんだ」と分かるだけで、もう1日生きるか、と思えた。ただの共感や足踏みが何のプラスになるかは分からないが、もうちょっと生きてみるか、につながればそれでいい思う。

その延長で、「書くこと」と「場所づくり」をやっていきたい。イメージは「西の魔女が死んだ」のおばあちゃん。なんか無理かもってときに訪れてもらって、自然のことや暮らしのことを一緒にやりながら、ただ過ごす。

「昼寝でもしなよ」

「ハーブ摘みに行かない?」

「その気持ち、詩にしようよ」

「それならうちにしばらく泊まったら?」

「野菜いる?」

こんな言葉をかけながら生きていきたいし、きっと自分自身も言われたいんだと思う。昼寝したい、ハーブを摘みたい、詩を書きたい、どこかに泊まりたい、野菜をもらいたい。そういう暮らしや欲望を、誰かに許されていたい。

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伊藤七 | ライター
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