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ブレーキをかけるのは、いつも罪悪感と気まずさ

不登校経験をテーマにしたエッセイを書いたときに気が付いた。心の根底にある「罪悪感」と「気まずさ」が、あらゆるものの足枷になっていること。

何をするにも「罪悪感」と「気まずさ」がセットでやってくる。

生きづらさのピークを脱出してもなお、心にへばりついている。

仕事をすれば、給与に見合った動きができているのか不安になり、罪悪感を感じる。それと同時に「たぶん給与に見合った動きはできてないな」と思い、気まずくなる。

自分の商品が売れれば、「質が伴っていないものを売ってしまったかも、詐欺かも」と罪悪感がわいてきて、気まずくなる。

畑の草刈りをサボれば罪悪感が強まり、近所の人や同居するパートナーに対して気まずさが募る。

いろんな場面で罪悪感と気まずさが押し寄せてきて、シャッターを下ろしたくなる。

この「罪悪感」と「気まずさ」の刷り込みは、不登校時代に始まったものだろう。

周りの友達は学校へ行くのにわたしは休む。

のんびりピアノなんて弾いてる。

学校は休んでいるくせに塾へ行く。

給食費を払ってもらっているのに食べてない。

お昼から学校へ登校して、教室の扉を開けると、視線がわたしに集まる。

合唱コンクールのピアノ伴奏の担当なのに休んじゃった。

合格発表の日、毎日学校に行ってた友達は不合格だったのに、わたしは第一志望に受かっちゃった。

こういうのが積み重なって、塵も積もれば山となり、罪悪感と気まずさが確かなものとなった。状況ごとに罪悪感や気まずさを感じるのではなく、自分のアイデンティティとして残ってしまった。

結婚生活や家庭菜園のおかげでだいぶ薄まってきたとはいえ、仕事や人付き合いの中で、罪悪感と気まずさを感じることはいまだにある。

やることをひとつずつこなしたり、認知の歪みを解消したり、小さいところからコツコツやっていくしかないだろうね。罪悪感と気まずさがこびりついてることを認識したことが、第一歩。認識できれば、どうにでもなると信じたい。

時には信頼できる人に「罪悪感を感じるほどの状況だろうか?」とたずねながら、認知の歪みを解消していきたい。

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伊藤七 | 書く人
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