運命とわかっていても悔しがることで愛情を示す
(書き下し文)
伯(はく)牛(ぎゅう)、疾(やまい)有(あ)り。子(し)、之(これ)を問(と)う。牖(まど)より其(そ)の手(て)を執(と)りて、曰(いわ)く、之(これ)亡(な)からん。命(めい)なるかな、斯(こ)の人(ひと)にして斯(こ)の疾(やまい)有(あ)るや、斯(こ)の人(ひと)にして斯(こ)の疾(やまい)有(あ)るや。
(現代語訳)
冉(ぜん)伯(はく)牛(ぎゅう)の病気がわるいというので、孔子様が見舞いに行かれ、窓越しにその手を取ってなげかれるよう、「この惜(お)しい人を亡くすことか、ああ天命なるかな。こういう人にこういう病気があろうとは。こういう人にこういう病気があろうとは。」
(私の想い)
想いは、自分の頭の中で留めるだけではなく、行動をもって、表現したいものである。
厳しいようではあるが、形のない物を想像するより、実物を見たほうが、記憶には残りやすい。
こうして何かに書き記すことも、またその一種である。
想っていれば、伝わるだろうと、そう思っていても、なかなかそうはいかないのが現実なのである。
これもまた、人生は意気に感ずである。
人は、素晴らしい人の行いを見て、心動かされるという特性がある。
ただ、一方的な表現をするのではなく、歩み寄り、受け入れるような、そんな姿勢で生きていかなければいけないと気づかされました。