日記(訂正する力 第2章感想②)

もう少し書きたいことがあるので。

ミームと破壊者

ひとは仲間内ではほとんど無意識で言葉や口調を選んでいます。

82p

「なんでもするから」
「ん?いまなんでも」
と何も考えずにキーボードをたたいてしまう人がいる。
ミームというのはかなり広く弱い引き締めで「仲間内」を形成して、それ以外の言葉はなんとなく白けた様子で受け取る。ので、とりあえずノッておくことを選ぶようになってしまう。自動的なやりとりに心地よさも覚えてるのだろう。

そこに、
「何でもするとはそれほど重い言葉ですのよ」
と破壊できるほどの外部からの新しい風がほしいのかもしれない。
…またそれも新たなミームになってしまうのかもしれないが…。

またAIの自動的な応対もこのミームを使ってる人間と大差ないということなのだろう。そういう意味では、AIは人間を超えるとか以前に、もう人間はAIより下で遊んでる存在なのかもしれない…。そうしてみると、AIが社会で台頭しても「優秀な人がたくさん増えてきた」ぐらいに捉えるだけ、なのかもしれない。当然淘汰は起こるだろうけれど。
シンギュラリティに夢を見すぎなのはその通りだと思うと同時に、不完全なのは承知で、もう少しだけ頑張ろうかなという気持ちにもなった。

家族やグループが運動なき組織になっていないか?

では対話で起こっていることはなにかというと、むしろ一緒に共通の語彙をつくっていく作業に近い。

84p

対話とは共通の語彙をつくる作業としている。そうしてコミュニティは成熟していくのだろうが、そうなると語彙も凝り固まってしまうのでは?と感じた。3章へと続く内容だが先んじて書くと、家族であってもその中の個人が他のコミュニティからの影響を経て変化し、それを家族への変化としてもたらすと考える。3章ではアドホックな動き「組織なき運動」が話題に挙げられているが、家族など閉鎖的な集まりが「運動なき組織」にならないか懸念したが、個人の努力次第では変容可能とはしている。とはいえ、これはベストエフォートの話だと思っていて、現実は閉鎖的とあきらめてしまって飛び出してしまうケースが多いのだろう。

そうじて既存の考えを溶かして固めなおすような取り組みが求められているのだと思う。
この前スーパーカップのマロンタルト味を食べようとしたら寝落ちしてしまって、完全に溶かしてしまった。起きてから冷凍庫に入れなおしたが、そうするミルクとタルトの甘味とで層がはっきりわかれてしまい本来の味からは少し離れてしまった。
…考えを溶かして再形成すると、なんか少し違うものにもなりうる。が、その変容も愛していかないといけないのだろう。

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