「学校で教わらなかった」
会話、本、SNS、TVを見ている中で
「学校で教わらなかった」
という言葉に、心の中がなんだかな〜という気持ちになる。
そして、「誰も教えてくれなかった」という言葉もなんだかな〜と
思うのである。
一体全体、何に引っ掛かっているのだろうか。
そもそも、学びって
学びとは、なんなのだろうか。
教えてもらうこと?新しいことを知ること?
これまでは、勉強って教えてもらうことという感覚が強かったように感じる。
というのも、やりたない〜って思いながら勉強していたから。
大学生の時には、そんな自分から少し脱していて
勉強は楽しい!って思っていたからそれまでの自分よりは能動的に学ぶことができていた。
のだが、今思えば、誰か教えてくれる人がいないと新しいことを知ることができないと思っていた。
完全に、外に求めていた。
そして社会人になり、勉強しようと色んな本を読んだし、
色んな人の元へ行ったし、子供達に勉強も教えた。
そんな経験を経て
学ぶ人の姿勢や、意欲がないとどんなに良い教育があっても意味がない。
ということがわかってきた。
いや、もちろんそんなことは何回も聞いていたし分かっていたけれど
分かっていなかったんだな。
あ、これも学ぶ姿勢がここで発揮されたからこのタイミングで分かったんだね。
まさに今現在、学ぶ側も教える側も経験して思うのは、
学ぶ者としては、わくわくしている時って本当にスポンジみたいに吸収できる。
身にもなるし、現実の変化が驚く速さで起きていく。
とにかく楽しい。だから学んでいるっていう感覚すらなくて、
とにかく遊んでいるかのように進化していく。
そして、やっぱり色んな人に会ったり、色んなものに触れたりして感じることで学びになっている。けれど、その学びは外からやってくるものではなくで、
自分の内側から湧き出てくる。だから、自分を信じて感じていくことなんだと思う。
教える者としては、学ぶものはまだ何も獲得していない状態だから、教えなくては学べない。と思っていた。
でもそうではなくて、学ぶ者は十分に素晴らしい存在で、学ぶ力をもっている。
ただ、そばにいて見守っていて、必要な時にそっと手を差し伸べれば良いのだと。
だって、自分がどんなに教えてもらっても気づかなかったように、その人のタイミングっていうもんがあるじゃないか。だから、教えなくてよかったんだと思った。
このnoteを書いての気づきは、
この「学校では教えてくれない」という言葉で、うまく教えられなかった自分を自分で傷つけて苦しめていたんだと分かった。子どもたちは自ら学ぶ、完璧な存在で、それを愛情をもって見守る。それは十分すぎるほどに私はできていた。自分を肯定したいと思う。
そして、学ぶものとして一緒に学んでいきたい。自分の心のわくわくを信じていきたいと思います。