反戦・非核を標榜すれば威張れるが

さて、8月という反戦・非核月間が終わった。くり返される同じこと。8月15日をピークに戦争嫌気の空気は収束。これも例年通りだった。

わたしには問題意識がある。平和学習・企画展・特集(注)の結果が、反戦・非核主義者の育成につながるわけではないことだ。
(注: 戦争や核兵器に反対に関するイベントの総称を平和企画と呼ぶことにする。)

平和企画における結論はいつもこう。「平和に関する学び・活動には自分の意志で取り組み、自分に今できることをするのが大切」。果たしてそれが発展するだろうか? 平和企画は、企図もメッセージも限界に達してはいまいか?

平和企画の受け手は、日本の反戦・非核をコピーした平和主義者でなくてはならず、例えば、積極的平和主義の行動に出ることは許されまい。

平和企画によって積極的平和主義に傾倒した者は(いないとも限らない)、きっと誰にも話さず、思想を偽って、何も行動せず、忘れたように生きるのだろう。そういう人へのケアがないのが日本の平和企画なのであり、個々の多様な結論は受け入れられてこなかった。

日本の反戦・非核運動は、受け手の意思の自由を奪ったうえで成り立つ。受け手が、「平和のために自分に今できることをしよう」と決意するまでが平和企画とされているように。「家に帰るまでが遠足」風に。

平和企画は、意図しない成果に達する受け手の感情や行動に責任を持てないのだから、平和企画を主導する人間も平和団体も、そんなに威張らなくていい。

ありがたいことです。目に留めてくださった あなたの心にも喜びを。