過去を学び未来を見据えるということ
はじめてのトラウマ
夏になるといつも思い出す光景がある。
旅館の一室でわたしは布団に入り、広縁を眺める。大浴場の入り口にある自販機で買ったスーパードライと下の売店で適当に見繕った肴たちで晩酌している父と、マウントレーニアのカフェオレで相手をしている母。私のとなりには、昼間の海水浴で疲れ切った妹が寝息を立てている。
私の夏の思い出だ。
私たち家族は、毎年夏休みに海水浴のために大阪から島根まで足を運んでいた。
3泊4日、夏休みの一大イベント。2枚書かなきゃいけない絵日記のうち、1枚は毎年決まって島根のことを書く。その海は遠浅で、ちいさい子ども連れでも安心して遊べる場所だった。
そのなかでも特に記憶に残っている夏がある。
その夜も島根のいつもの旅館で、両親は子どもたちを布団に入れ、小さな宴会を楽しんでいた。
一方私は、なかなか寝付けず寝返りを繰り返してはため息をついていた。その日、あまりにもショッキングな出来事に遭遇したからだ。
両親が話す声が聞こえてくる。彼らは今日の旅の行程を振り返っていて、私はたまらず声をあげた。
「お願いやから、その話はせんといて! うち、怖くて寝れへん」
私のその声に一旦談笑は止んだが、少しの間を置いて復活した。怖かったか、そうか。私の必死さを笑いながら、父親がこう言った。
「でも、怖いと思えたのはいいことや。実際、怖いことやってんから」
多少は記憶の捏造および美化が作用しているかもしれないけれど、おそらくこういうふうな内容のことを言われたはずだ。その怖さを覚えとくんやで、と。
そして私の必死の抗議も虚しく、父親は面白がって何度もその話をした。ふてくされた私は、恐怖と絶望に震えながら眠りの闇に落ちていったのだった。
島根への旅行は、朝日がまだ顔をみせないうちに出発する。大抵はそのまま大阪から島根へ車で直行。出雲大社に寄った回もあれば、浜田に住んでいる親戚の家を訪ねてカチコチに凍ったあずきバーをもらう回もあり。
その夏は島根につく前に広島に立ち寄った。原爆ドームを眺め、千羽鶴に触れ、平和祈念資料館を見学した。
当時小学2年生の私は、まだ歴史の授業を習っていなかった。探検バッグをぶら下げて町中を練り歩く「せいかつか」しか学んでなかった。ゆえに、1945年8月6日の広島に何が起きたか、まったくもって知らなかった。
鳴り響くサイレンの音、おどろおどろしい写真たち、焼け焦げたお弁当箱。資料館の中は、なにも知らない私でさえ足がすくむような内容が展示されていた。
親がていねいに解説をしてくれ、そこで初めて私は原爆を、ひいては戦争を知った。
そしてここで私は、はじめてのトラウマを作ることになる。
おそらく、訪れたことのある人のほとんどがトラウマになっているはずの、あの被爆再現人形と対面したのだ。
焼け爛れた皮膚を服のようにぶら下げ、うつろに歩く人々。母親と姉と弟だろうか。
今にも動き出しそうなその人形は、当時の人がそのまま現代に迷い込んだようなリアルさだった。恐怖でいっぱいになった私はその場から動けず、その(あえてこう表現するが)グロテスクな人形としばらく見つめ合っていた。
幼さゆえにあまり理解しきれていない二つ下の妹が、無邪気にはしゃぎまわっている。彼女とその人形を交互に見比べていると、母とともに妹の手を引いて焼け野原を徘徊する自分を容易に想像できた。身の毛もよ立つほどの恐怖だった。
これが、私の覚えている限りはじめて戦争という過去に触れた記憶だ。
史学科とはなんだ?
時は変わり、2018年春。私は大学4年生となり、リクルートスーツと慣れないパンプスに足を痛め、梅田の駅のベンチに座り込みながら、史学科ってなんだろうとぼんやり考えていた。
私は当時、史学科という学科に在籍していた。史学科とは読んで字のごとく、歴史学を研究する人たちの集まりだ。
戦争のことなどなにひとつ知らなかったあの夏から私は成長し、歴史をきちんと学んだ。
「世の中には戦争について教えない教師もいる。でも僕はね、先の戦争で日本が何をされたのか、日本が何をしたのか、それらをきみたちが正しく学んでくれさえすれば、どこの大学に行こうがどんな仕事に就こうが、構わないと思っているんだよ」
そう熱く語ったのは、中高一貫の6年間、日本史を担当し続けた教師だ。
高校生のころの私はその言葉にいたく感銘を受け、将来の夢を「歴史の先生」にシフトチェンジした。感化されやすいお年頃だったのかもしれない。
当時、歴史のテストは常時赤点だった私だが、史学科のある大学を目指し、なんとか合格した。
結局、いろいろあって教師という夢は諦めたが、史学科のなかでも日本近現代史ゼミに所属し、太平洋戦争中の教育を卒業論文のテーマとして選んだ。
私が史学科に進学した直接的なきっかけはその教師の言葉のなかにあったけれど、私の中でずっと、広島でのトラウマを引きずっていたこともひとつの要因だった。
言葉にできない恐怖体験と、それを歴史の授業で答え合わせしたときの衝撃。
幼心に受けたトラウマは歴史を学び知識を得たあとで、やがて「戦争とは恐ろしいものだ」という結論に回帰したのだった。
あの恐ろしい光景を二度と繰り返さないために何ができるのか。考え抜いた末の答えが、史学科という選択だった。
史学科が就活に不利だという噂は、先輩や教授たちからうんざりするほど聞かされていた。
これはずっと恨みつらみを言い続けているのだが、とある有名企業の面接を受けた時、卒論のテーマを問われた私は馬鹿正直に「太平洋戦争中における教育のあり方についてです」と答えた。
すると、面接官は「ああ、最近流行ってるもんね。教育勅語、だっけ? モリカケのやつ?」と笑った。一緒に面接していた学生からもクスクスと笑い声が漏れていた。
うるせ〜〜〜〜〜!!!! と踊り出しそうになるのを抑えて「国民学校においてどのような教育がなされていたのか、またその教育が戦時下においてどのような人物像を形成仕様としていたのか、そういったことを研究しています」と必死に説明したが、面接官はにたにたと馬鹿にしたような笑いを隠さなかった。
(国民学校ってなに? とも聞かれたのにはさすがに閉口した)
結局のところ、世間一般の歴史学に対する印象なんて、そんなものだ。
「高校までで勉強してきたのに、なんでまだ歴史やるの?」
「てんさん、レキジョだっけ?」
「あ〜刀○乱舞とかそういう系?」
実際、史学科を名乗るたびによくこういった類の質問(の皮を被った嘲笑)を数おおく受けてきた。その度に私は、ゼミの教授の言葉を引用して説明する。
「史学科って、過去を知って未来を見据える学科なんですよ。なにごとも、過去から学ばないと前に進めないじゃないですか。けがをして痛かったという経験から、今度はけがをしないようにと対策を考えますよね。私たちがやっているのは、そういうことです」
歴史を軽視するということ
そしていま、2021年8月。
また夏がやってきた。今年の夏がいつもとちがうのは、疫病が蔓延し、人々が次から次へと命を落としていっていること。そしてそんな中にもかかわらず、感染症対策もそこそこに国の祭典が開催されているということだ。
「もうここまで来たら引き返せないから」
「始まったら応援するしかないよね」
「選手は頑張ってる、彼らの頑張りを讃えたい!」
「(コロナに)勝つまでは我慢しかないよ」
今回のコロナ禍およびオリンピックの開催において、日本は76年前の歴史からなにひとつ学んでなんかいないという事実を、ありありと見せつけられてしまった。
オリンピック関連報道に枠を割いたせいで戦争特番の消えた8月6日。
8時15分に黙祷をしないという選択をしたIOCとそれを受け入れた日本政府。
用意された原稿を読み上げるだけしかせず、さらには一番大事なところを読み飛ばしてあっけらかんと謝罪する首相。
意図的か否かの議論はさておき、現代日本および今の政府は歴史を軽んじている。いち国民の私にですらわかる程度に、だ。
ただただそのことに、いち史学科卒業生として、そこはかとない憤りと絶望と悔しさでいっぱいだ。
いままで政治的意見を語るのはタブーとされてきたが、近年その考えがすこし緩和されたように感じている。
友人との会話で政権への批判的な意見が出たり、ツイッターデモの活用などネット上において自分の意見を主張する人も増えた。いいことだ。
とはいえ、慌ただしい生活の中で声を上げることさえ儘ならないときもある。
だからこの記事は、私自身に言い聞かせるためのものだ。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」
この約束を破らないようにするため、私たちは今日も自分の頭で考えて、自分の生きているこの国がおかしな方向に暴走しないよう、ひいてはこの国の政治家たちがおかしなことを言い出さないよう、見張っている必要がある。声を上げる必要がある。
過ちを繰り返さないための努力とはそういうものの積み重ねだと、そう思う。
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