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国家主権や人権は、常に過去を踏まえて乗り越えていく
ウクライナ戦争において、プーチンは言います。
「自国の軍隊で自国を守れない国に、主権は無い」と。
その論理に、明確に反論できるのか?
それが問われていることの一つです。
国家主権。
基本的人権。
「どの国にも、平等に主権がある」という共同幻想。
「どの人にも、平等に人権がある」という共同幻想。
それは、共同の幻想を共有できるから有効なのであって、幻想を共有できなければ「は?なに言ってるの?」ということになります。
国家主権の解釈も、欧米とロシアでは違う。
幻想が、必ずしも共有できているわけではないのです。
そして、どちらが「正しい」というのも、難しい問題です。
国家主権、人権。
これらの幻想は、一種のルールとして、人間社会の運営を間違えなく支えています。
とはいえ、あくまでも幻想であるからこそ、「善きもの」として語り継ぐ努力をしないと、共有はできなくなります。
蜃気楼として蒸発して消えてしまいます。
そんな頼りないものであれば、プーチンを笑えなくなる。
というか、プーチンから笑われることに、耐えられるのか?
あるいは、その幻想が、「善きもの」であるために検証を続けないと、ハリボテとなってしまい、それもまた共有はできなくなります。
プーチンが、思わぬ論理を展開してきた時に、反論ができなくなる。
それが今もなお、人類にとって有効なことを、説明できるのでしょうか?
人間が生きるために社会は必要であり、社会のためには共同幻想が必要である。
であれば、<より善い共同幻想>を鍛え上げ、語り継ぐしかないのではないか。
共同幻想は、宗教のような気がする。
宗教とは、願いであり希望。
であれば、宗教=<希望を内包した幻想>とも言えるのではないか。
「全人類にとって、希望を内包した共同幻想」を鍛え上げることが、平和的な世界運営の要点になるのだろう。(世界宗教と言ってしまっていいのか?)
いずれにせよそれは、従来の国家主権や人権概念を、踏まえて乗り越えていく必要があるでしょう。