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【終戦記念日に】特攻隊にいた祖父の命を救った不思議な話

 高校2年の夏、じいさんが死んだ。76歳だった。今から15年以上も前のことだから、生きていれば94歳ぐらいになる。

じいさんは、若いころは船乗りだった。立ち寄った港町で集めた海外の骨董品やヘンテコな人形、ただ派手なだけの絵画など、よくわからないものが実家の客間に飾られていたのを覚えている。

俺が物心ついたときには、とっくに仕事は引退していた。記憶にあるのはお茶を飲んでいるか、マイルドセブンを吸っているか、歴史小説を読んでいるかぐらい。ただ、船乗り時代に給油で寄港した港町で体験したというヘンな話はよく聞かせてくれた。

「マダガスカルには呪術師がいて、これはそいつからもらったブードゥー人形だ」とか、「チリでは顔中イボだらけの怪人に遭遇した。一発ぶん殴ったらしっぽ巻いて逃げやがった」とか。

今考えれば眉唾ものではあるけども、山形の片田舎しか知らない僕にとって、じいさんが見知らぬ土地で経験した奇談を聞くのはほんとうに楽しかった。

それでも、じいさんは戦争の話だけはしなかった。

昭和二年生まれだから、終戦時は18歳だ。父ちゃんからは「じいさんは、予科練(海軍飛行予科練習生)だった。広島にいたんだ」とだけ聞いていた。それを耳にしたのは、俺が小学生のころだった。

当時俺は『はだしのゲン』を読んでいた。ほんとうに衝撃的だった。マンガの世界とはいえ、現実に起きたことだとは思えなかった。というよりも、思いたくなかった。毎晩あの時代の広島にタイムスリップする夢を見た。阿鼻叫喚こだまする地獄絵図のなか、

「じいちゃん、助けて!」

百戦錬磨の冒険野郎が夢のなかの広島にいると信じて、毎回そんなことを叫んでいた。 

俺が地元の高校に進学してしばらく経ったある日のこと。俺は通学で使っていた自転車をパンクさせてしまった。自分で修理するのが面倒くさくて、暇そうだったじいさんにお願いをした。「ちょうどいい運動だ」と笑って、引き受けてくれた。

その日の晩、じいさんの体に異変が起きた。下腹部が痛いという。翌日、かかりつけの病院に行った。

「医者に診てもらったら、『筋肉痛だ』とさ! 俺の体も、もうだいぶなまってるな(笑)。だから心配すんな」と、うそぶいて見せた姿が印象に残っている。

なぜなら次の日の朝、居間のソファーで痛みに悶えてのたうち回るじいさんの姿を見たからだ。一瞬で、ただごとじゃないと思った。

じいさんはすぐに救急搬送された。腹膜炎だった。筋肉痛ではなく、腸が破れていたのだ。

俺は、自転車の修理を頼んでしまったことを心の底から後悔した。「すべて自分のせいだ」と思った。

だから、学校帰りの見舞いは欠かさなかった。当時の自分ができる精一杯の罪滅ぼしだった。

銀行に勤めていた父、自宅でピアノ教室をやっている母。じいさんに自由に会いに行けるのは俺だけだった。

お見舞いに行けば、2〜3時間は平気で話した。当時部活には所属していなかった。いわゆる帰宅部というやつだ。小学校3年生から野球をやっていて、高校でも野球部に入ったがすぐに辞めた。体育会系のノリが性に合わなかった。ただそれだけのことだ。だから、時間だけは有り余っていた。

船乗り時代の体験談を聞きたかったのだが、残念ながらそれはあまり聞けなかった。薬の影響で、急速に痴呆症が進んでしまっていたのだ。

「この建物の裏手には、徳川家直轄の港町がある」「南蛮人がひっきりなしに挨拶にきて困る」。初めて聞いたときは耳を疑ったが、お医者さんの話を聞いて無理やり自分を納得させた。

たまに正気に戻るときもある。「勉強はどうだ?」とか「恋人はできたか? 避妊だけはしっかりしろよ。俺が下船した港には、最低一人以上子どもがいたからな」とか、教育上よろしくないアドバイスばかりをくれた。

じいさんはたぶん、現実と夢の狭間に生きているのだと思った。

ある日。突然、自分の戦争体験の話をしてくれた。見舞いに通い続けて、半年以上たったときのことだ。

正直、当時のじいさんの容体はすごぶる悪かった。多臓器不全の一歩手前のような状態だった。風邪をこじらせて肺炎になり、いったん快方に向かっては再び風邪を引く。それの繰り返しだ。高校生ながら、ある程度の察しはついた。「もう長くはないのかな」と。

「じいちゃんはな、海軍航空隊に所属してたんだ。知ってるか? あの、特攻隊」

もちろん知っていた。「うん、知ってる」とだけ答えた。

「でもじいちゃんはな、一度も出撃しないまま、終戦を迎えたんだ。敵艦に突っ込むなんて、怖いだろ。ふつうは。でも、そんな空気じゃなかったんだよ。あのころは。でも、泣き言は言いたくなかったんだ。なぜって、特攻隊の仲間がそうだったからな。

玉音放送を聴いて、正直ほっとした。こんなにあっけないもんかって。あんだけギャーギャー騒いでた上官たちが押し黙って、ぐすぐす泣いてやがる。まあ、じいちゃんも泣いたよ。理由はわからんけど」

なぜ、このタイミングでそんなことを話し出したのか理解できなかった。でも、ただただ理解したかった。じいちゃんの話を聞きたかった。

「その後な、上官から『ほどなくして米軍が本土に上陸するであろう! ここにある機密資料をすべて焼くから、貴様らも手伝え!』とさ。だから、仲間と一緒になって、よくわからん部屋に行って、よくわからない紙を集めてきて、広場で大量に焼いたんだ」

敵軍に踏み込まれる前に焼く。映画や小説でもよく観るシーンだ。

「そのときにだ、特攻隊の出撃予定表みたいなのがあったんだ。興味本位で読んでみた。そしたなら、じいちゃんはな、明日死ぬ予定だったんだ」

じいさんの言う明日とは、1945年8月16日。76年前の今日、8月15日に日本は平洋戦争終結が終結した、翌日だ。

「これ、奇跡だよな(笑)」

もし戦争終結が遅れていたら、じいさんは死んでいたかもしれない。たった一日の差で生きながらえた命、ということだ。

その話を聞いたときは、正直どう反応すればいいかわからなかった。


「じいちゃんが正気に戻った」

「ずっと聞きたかった昔の体験談を聞けた」

「戦争の話を初めてしてくれた」

「原爆はどうだったの?」


さまざまな感情が入り混じる。気づけば俺の目から涙が溢れていた。

孫が落涙する姿見てどう思ったかはわからないが、じいさんは最後にこう言った。


「じいちゃんはな、偶然生きてんだ。仲間は大勢死んだがな。たった一日の差で生きてんだ。たった一日で人生は変わるぞ? 絶対に、一日を、無駄にするなよ」


一週間後、じいちゃんは死んだ。

俺と父ちゃん、母ちゃん、家族で看取った。


葬式には親戚一同は集まったが、じいちゃんの友達は一人も来なかった。


納骨の後、父ちゃんがこう言った。


「じいさんはな、ひとりも友達がいなかったな。俺が小さなころも、友達を会っていた記憶もないな。なんだかな、寂しい葬式だな」



天国の戦友たちに、マダガスカルやら南米のどこからで体験した武勇伝を語っているじいさんの姿が、俺の目にはしっかりと見えた。マイルドセブンをうまそうに吸いながら。



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