障害を個性として捉え直す必要があるのか?
私が今感じている事。
それは病気や障害を
個性と捉え直す必要があるのか?
という疑問です。
今読んでいる本にも出てきたので今一度考える必要があると思い書いています。
まず、青マーカーの障害であるか個性であるかの議論についてですがコレに関しては支援を得る為に、医療機関で病名や障害名を明確につけてもらう意味で必要だと思います。
私がネットの中で出会う人の中には病名がつかない事への苦労を語る人もいます。
病名、障害名がつかないという事は中々他者に理解してもらえないという事に繋がります。
なのでしっかり病名、障害名をつけてもらう事は
とても重要だと私は感じています。
そして私が引っかかっているのは
赤マーカーの個性の一つのあり方として捉える
という視点ですが、
果たして個性と捉え直す必要があるのでしょうか?
敢えて個性として捉え直すという事が
障害や病気を持つ人への
障害や病気を持つ人自身への
嫌悪感に繋がる可能性はないでしょうか?
私は病気や障害を個性だと捉え直す考え方の根底に
病気や障害への嫌悪感が潜んでいるように感じます
そしてより境界線を明確に引いてしまう気がします
病気や障害を持つことをより開示しにくい社会を
つくるような気がしてなりません。
理解・支援を得る為に病名、障害名が必要な以上
個性と言い換えるメリットは一定数のグレーゾーン
の人が一時的な対処を得る為だけとしか感じません
ネガティブな事をポジティブで覆い隠すのではなく
受け入れるというという考え方が必要と感じています。
病気や障害がバレたらどうしよう?
友達が離れて行かないかな?
会社のにバレたらグビになるかな?
この不安は他者理解のない社会だからであり
他者への理解や背景を見れない視野の狭さが蔓延
している事が問題で言葉の問題でない気がします。
病気、障害という言葉を
個性という言葉に変える事で
態度が変わってしまう人を作りだす社会がそこに
あると感じています。
障害、病気か?そうでないか?は
医療機関が支援の基準や治療法を決める為、
当事者が他者に理解を求めやすくする為だけの
言葉と私は認識しています。
病気や障害があるとかないとか関係なしに
他者の背景を気にかけ理解してあげようという姿勢
それだけでいいのではないでしょうか?
病気や障害を持つ人やグレーゾーンの人、
単純な育った環境の違いや色々な違いを持つ人の
集まりでの中生きる私達は
他者の背景を考えるという視点は
必要な事と感じます。
共感の文も載せておきます。
今回この本を一部引用させてもらったのは
私が今伝えたい事を表現するのにわかりやすい文章があったからでアンチ的な意は全くありません。
逆にとても意義のある素晴らしい書籍と感じますが私が何か評価していい物ではないと思っています。
もしかすると当書の誤解を招く引用であっては困るので当書とは切り離して考えていただきたいです。
できれば当書を読んでいただきたいですね。
これからの時代に必要な目線が当書にはあると感じています。
参考書籍👇