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幡野広志さん「ラブレター」を読んで
タイトルそのまま、幡野広志さんの「ラブレター」を読んだ。
読んだ感想としては、「読んでよかった。」の一言につきる。
ほんとによかった。
読み終わり、白い表紙をばたんと閉じた時に、
思わず、「読んでよかった~~。」と声が出た。
そして、もう一つ。
「娘にも読んで欲しい。」と思った。
娘は、今、生後6か月の赤ちゃんを育てている。
そんな娘に、幡野さんの息子さんへのまなざしを、見て欲しいと思った。
幡野さんは、ご存じの通り、いろいろな人物紹介の肩書をお持ちのようだが、写真家である。
はっきり言って、私はあまり写真には興味がない。
この写真をバシャバシャ撮るご時世になってからも、ほとんど撮らない。
というか、撮りたいものしか撮らない。
とりあえず、撮ってみることはしない。
他の人が撮っている写真は、興味深く見るのだが、自分は撮らない。
自分の目で直接見るものに、かなうものはないと思っているのだ。
娘が、保育園や小学校のころに、行事があると、保護者はこぞってビデオカメラと望遠カメラをもって、場所取りに必死になっていた。
シャッターチャンスを逃さないために、娘には、なるべく目立つ色の靴下をはかせたり、髪飾りを付けたりした。
まっ、そんなことをしても、同じ色の靴下をはいているよその子を撮っていたり、髪飾りがでかすぎて、赤白帽子がうまくかぶれない娘は、ひとりだけ変な頭の格好になっていたり、策を練るも、無駄骨に終わることは多かったが。
我が家では、カメラをかついで映しまくるのは夫の仕事だった。
撮りたがりの夫には、ちょうどよい役割。
撮るよりも、自分の目で、その瞬間を見ていたいと思う私にも、ちょうどよい。
カメラって、レンズで切り取ったものしか見えないじゃないか。
その場の雰囲気とか、周りの景色とか、臨場感とか、それはもう、直接自分の目の玉を通じてしかわからないじゃないか。
それに、いくらビデオや写真をたくさん撮っても、帰宅後に、娘や祖父母を交えて、1.2回見たらもうおしまいである。
それらは、押し入れの中にしまわれてしまう。
記憶は、薄れていくかもしれないけど、その時にワクワクした気持ちは、きっと私の中に残るはず。
それを逃すのは、もったいなさすぎる。
ずっと、そう思ってきた。
もう何十年も。
しかし、だ。
幡野広志さんが、写真というのは、撮る人と被写体との関係性が出るのだとおっしゃっている。(かなり、おおざっぱな書き方ですみません。もっと、素敵な表現をされているので、ぜひ「ラブレター」をお読み下さい。)
衝撃だった。
えっ?そうなのか?
素敵すぎるじゃないか。
そんなこと考えもしなかった。
ということは、押し入れの中で眠っているあれらは、この先何十年もたった時に、娘が見ることがあれば、夫の娘に対する思いが、そこには残っているということになる。
それも、すごい数で、これでもかこれでもかと、夫の思いを届けることになる。
やられた。
カメラのアングルや、娘の出番を気にしてばかりの夫よりも、心全開で娘に寄り添っていたつもりの私。
いやいや。
それって、自己満足なだけやったみたい。
何十年後かに、娘に、心の支えが必要となった時に、ビデオや写真を通しての父親のまなざしが、力を発揮するやもしれず。
きっと、そんな時が、くるんだと思う。
素敵じゃないか。夫。
くやしいじゃないか。夫。
「ラブレター」を読んでいる時は、文章にしか関心がないと思っていたけど、きっとたくさんの幡野さんの写真に、私も心動かされていたんやなあ。
写真て、すごい力があるんやなあ。