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「たばしる」と石山寺

ずっと行きたかった和菓子屋さんに行ってきた。
20年ほど、ずっと焦がれていた和菓子屋さんである。
しかも、車で30分ほどの近さ。
行こうと思えばいつでも行けるのに、どこかに出かけるとなると、ついつい遠出となってしまうので、
近すぎるがゆえに、なかなか行けなかった。
いや。行かなかったのか。

そこには、「たばしる」という名前のお菓子がある。
近江の地を愛した松尾芭蕉の俳句から名前をつけたそうだ。
「石山の 石にたばしる あられかな    芭蕉  」
石山寺の境内で芭蕉が詠んだそうだ。

その情景をお菓子に映して創作されたのが「たばしる」だそうだ。
いやはや、和菓子の世界の奥深いことよ。
情景をお菓子で表現するなんて。

とか言いながらも、私が一番心ひかれていたのは、「たばしる」の小豆である。
丹波大納言に蜜を吸わせたものが、粒そのままに、胡桃と一緒に白いお餅で包まれている。
豆好きの私としては、粒そのままというのに、心をわしづかみにされていた。
写真や映像で見たことはあるが、つやつやのつやである。
本当に、あんなにつやがあるのだろうか。
粒そのままというのは、どんな触感なのだろうか。
胡桃は、はたして必要だろうか。
餅で包んでいるというのは、どうやって食べたらいいのだろうか。

何十年分もの妄想なので、おそろしく具体的である。

ここまでくると、何かのついでに行くなんてできない。

「たばしる」を食べるためだけに出かけたい。
ここまで失礼をしてきた分を、少しでも取り戻させていただきたい。

そんな自分勝手な思いとともに、瀬田川沿いの景色を愛でながら、ようやく「たばしる」の元にむかったのである。

「たばしる」を食すことができるのは、石山寺近くの茶丈「藤村」というお店である。
店構えも素敵である。
石山寺の山門から、少し離れているのがこれまたよし。
店の前に到着したのは、午前十時。
しかも平日。
当然、お客さんはゼロ。
庵のようなこのお店を貸し切りである。

店に入ると、はかま姿の店員さんが何やらおっしゃっている。
どうやら、検温と消毒を促していたようだが、まったく耳に言葉が入ってこない。
店員さんの動作から、そういうことかと判断して素直に従う。
頭の中は、「たばしる」という言葉しかなかったのだ。
ようやく、席に座りメニュー表を開く。
すぐに、「たばしる」とお茶のセットを見つける。
即座に注文。

茶丈の大きな窓は、瀬田川に面していて、川面がきらきらと光っているのがよく見える。
そんなに大きな川ではないが、水が流れる様子は、心を落ち着かせてくれる。

ほどなくして、「たばしる」とお煎茶が運ばれてくる。
お煎茶も、たっぷりの茶葉で、お湯の温度を調整できるように茶器が整えられている。
そして、「たばしる」。
真っ白なお餅に、透けて見える小豆。
くろもじも何もなく、どうやら手で食べるようだ。
ふむふむ。

まずは、お茶をいただく。
美味しい。
まろやか。
味のわからぬ素人でも感動する。

いよいよ、「たばしる」をつかむ。

やわらかい。
ふにゃ である。

口に入れると、伸びるはのびる。
餅が美味しい。
うまい。

そして、丹波大納言である。
大粒のそれは、一粒ひとつぶがはっきりと感じられる。
蜜で甘いのに、甘すぎない。
白い餅に、よくもまあこんなに上手にと感心するくらい、たっぷりと小豆が包まれている。
その小豆を味わっていると、コリっと胡桃の感触が歯に当たる。
一気に胡桃の香りと味が、小豆と合わさる。
胡桃と小豆のマリアージュ?
そのバランスをとっているのが、白いお餅。
もう最高である。
何十年分もの時間を、とにかく味わい尽くそうと、ひとつの「たばしる」に
全集中である。

時々、目の前を、石山寺に向かう観光客が通り過ぎていく。
大きな窓なので、当然、私とも目が合う。
たいがいそういう時は、食べているこちらが恥ずかしくなるものだが、この時はまったく違った。
「えっ?そちらさんは、こんな美味しいものを食べはらへんの?」
とばかりに、どや顔で見返す私だった。
考えたら、朝の十時から和菓子は食べへんか。
まずは、石山寺を観光してからが普通か。

お腹と口と心が満たされてから、ようやくそのことに気が付いた。


そこで、私もついでに石山寺に行くことにする。
ふつうは、石山寺のついでに、「たばしる」なんやと思うけど。
まっ、それはさておき、久しぶりの石山寺である。
紫式部ゆかりの寺である。
そんなことを思い出しながら、入場料を払って寺に足を踏み入れる。

歩き出してすぐに、思わず漏れ出た一言。

「石山寺多宝塔。」

そうやった。
これがあった。
歴史の教科書で見たことのある、とにかく覚えなくてはならない建造物としてとしか、私の記憶にはなかった多宝塔。
日本最古の多宝塔。
教科書の写真とまったく同じやった。
当たり前やけど。
でも、教科書で見た時は、形と特徴にしか興味がなく、その大きさを想像することもなく、どこにあるのかを考えることもしなかった。
暗記教育の弊害か、自分の想像力の貧困さの表れか。

しかし、実際にこうして目の当たりにすると、ぐっと身近に感じるものだ。
立札に書かれた説明書きも、するすると頭の中に入ってくる。
教科書の内容も、こんなぐらいするすると頭の中に入ってきたら、もっと楽に学生生活を送れたんだろうなあ。

源氏物語の特別展も堪能し、光源氏の惚れっぽさには辟易しながらも、いい一日やったと帰宅をした。

帰宅をしてから、「たばしる」に添えられていた説明書きを、もう一度読み直す。
あの美味しさが、再度よみがえる。
あの美しいフォルムもよみがえる。
瀬田川のきらきらもよみがえる。
いい時間だったなあ。

「たばしる」と一緒に、
石山寺多宝塔がよみがえってきてしまうのは、しかたがないか。

でも、絵巻物に描かれた、次々と女の人に惚れまくる光源氏の姿がよみがえってくるのは、ちょっと残念か?

「たばしる」を食べるためだけに出かけたい!とか言いながら、結局観光も楽しんでしまったバチやな。
何十年も焦がれていた「たばしる」に対して、失礼やったな。
つい、そばにあったから行ってしまっただけなんやけど。

ちょっとだけ、光源氏を許そうかなって思ったわ。


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