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障害は個性、という言説に思うこと
物心がついて間もなく、私は発達障害児であることを宣告された。
病気と障害の違いも分からない年齢で、「きみの障害は治らないものだ」と伝えられたときの絶望を、どう言葉にすればいいのだろうか。
周りと違う
両親とさえ違う
そんな疎外感を初めて味わったのは、6歳のころだった。
それからというもの、医者やカウンセラー、時には親までもが「障害も個性だよ」と言った。
「この有名人も同じ障害を抱えて生きているんだよ」
励ましのつもりだったのかもしれない。
でも、そんな言葉を幼い私がどう受け止めればよかったのか、今でも分からない。
ただ一つ言えるのは、それは確かに、私の自尊心を肥大させる栄養にはなった、ということだ。
「障害は個性」
この言葉を、障害者として生きるすべての人間が一度は耳にしたことがあるだろう。
そして、それを嫌う当事者は少なくない。
なぜなら、障害を持って生きる人生は、あまりに「一般化された障害者の特徴」に当てはまりすぎていて、とても個性とは思えないからだ。
こんなものは個性なんかじゃない。
ただの呪いだ。
私もそう思っていた。
「個性」としてオブラートに包まれるにはあまりにも腹立たしい苦しみばかりだった。
「あいつも、こいつも、私の苦しみなんか知らないくせに、無責任な励ましなんかしやがって!」
そう叫びたくなることもあった。
実際叫んでいた。
ただ、あるとき気づいた。
どこかで気づいていたものを、認めたと言っていい。
自分が彼らの苦しみを知らないように、
彼らもまた、私の苦しみを知ることはない。
私の呪いに向き合えるのは、結局のところ私だけなのだ、と。
じゃあ、それはどうすればいい?
呪いを呪いのまま抱えて生きるのか?
それとも、本当に「個性」だと信じて、ポジティブに消化しながら生きるのか?
どっちでもいい。
むしろ、「障害=個性」かどうかを気にすること自体が、問題の本質を遠ざけているのではないか?
「言葉のせい」にしても、何も変わらない。
障害が呪いか個性かなんて、どうでもいい。
「障害は個性」なんて、誰かに言われて納得するようなものじゃない。
自分で決めることだ。
「これは呪いだ」と決めつけるのも、
「これは個性だ」と信じ込むのも。
もしあなたが「障害は個性」と言われて頷ける日が来るとしたら、
それはきっと、
他責に振り回される人生を終わらせ、
自分や他人と向き合う覚悟ができたときだ。
障害を、他人の言葉のせいにするのではなく、
「どうにかするのは自分だ」と腹をくくったとき。
そのとき、はじめて、
「これが私の個性だ」
と胸を張って言えるのかもしれない。
そう考えたら、今はまだその途中なのかもしれない。
呪いを個性に変えるのか、
それとも違う何かに昇華するのか——
それを決めるのは、自分自身だ。