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【小説】「充電切れの向こう側」
プロローグ:5%の邂逅
ここは明治学院大学。秋の陽射しが図書館のガラス張り閲覧室に差し込む午後3時。経済学部2年の小宮悠真(こみやゆうま)は、スマートフォンのバッテリー表示を見つめ、ため息をついた。残り5%。充電器を忘れたことに気づいたのは、もう遅すぎた。
「まいったな…」
悠真は小さく呟き、経済原論のレポートに目を戻す。しかし、集中力は既に途切れていた。スマホの電源が切れれば、インターネットにアクセスできない。つまり、レポートの参考資料も見られなくなる。そう思うと、焦りが胸をよぎった。
その時、隣の席から小さな物音が聞こえた。
振り向くと、長い黒髪の女子学生がMacBookの充電アダプターを床に落としたところだった。反射的に、悠真は拾おうと手を伸ばす。
「あ、ごめんなさい。私が…」
女子学生も同時に身を屈める。
そして、二人の指先が触れ合った。
ほんの一瞬。しかし、その接触は悠真の心臓を高鳴らせるには十分だった。
「す、すみません」
悠真は慌てて手を引っ込める。女子学生は微笑みながらアダプターを拾い上げた。
「いいえ、私こそ。ありがとうございます」
彼女の声は、図書館の静寂にそっと溶け込むような柔らかさだった。
「あの…」
女子学生は悠真のスマホに目をやり、何かを察したように首を傾げた。
「もしかして、充電器お使いになりますか?」
彼女が差し出したのは、マグネット式の充電ケーブル。その先端のLEDが、悠真のiPhoneを蒼く照らし出す。
「え? あ、はい…助かります」
戸惑いながらも、悠真は申し出を受け入れた。充電器を接続すると、画面が明るく灯り、バッテリーアイコンが緑色に変わる。
「よかった。私、高村汐里(たかむらしおり)といいます。文学部の3年生です」
「小宮悠真です。経済学部の2年生…あの、本当にありがとうございます」
汐里は優しく微笑んだ。
「気にしないでください。私たち、同じ"充電切れ難民"同士ですから」
その言葉に、悠真は思わず笑みがこぼれた。
図書館の大きな窓の外では、銀杏並木の葉が風に揺れている。5%だった悠真の心は、今や100%に満たされていた。
そして彼はまだ知らない。この偶然の出会いが、彼の人生をどれほど大きく変えることになるのかを。
第1章:不可視のストーリーズ
図書館での出会いから数日後、小宮悠真は経済原論の講義が終わると、いつものようにキャンパス内のカフェテリアに向かった。昼下がりの空気は涼しく、秋の匂いが漂っている。スマートフォンを取り出し、無意識にInstagramを開く。彼の日常は、SNSをスクロールすることで始まり、終わると言っても過言ではなかった。
その時、ふと目に留まった投稿があった。
@shiori28
投稿されたストーリーには、図書館の机とMacBook、それに見覚えのある充電ケーブルが写っていた。そしてキャプションにはこう書かれている。
「#充電切れ難民 救済される午後」
悠真は思わず画面を凝視した。間違いない。あの日、汐里が使っていた机だ。そして、そのキャプション…。彼女もこの投稿を通じて、自分との出来事を振り返っているのだろうか?
さらに画面をタップすると、次のストーリーには短歌が添えられていた。
充電切る/ 百分の五の/ 黄昏に/ 触れた小指の/ 温もり忘れず
その短歌を見た瞬間、悠真の胸がざわついた。まるで自分たちの出会いそのものを詠んだような内容だったからだ。
「これって…」
彼女が自分とのことを意識しているとは考えづらい。それでも、この短歌に込められた言葉が、自分の心に響いてしまう。悠真は画面を閉じるべきか迷った。しかし、どうしても目が離せない。
「…いやいや、考えすぎだろ」
「…まあ、偶然だよな」
小さく呟いて画面を閉じたものの、そのストーリーが頭から離れなかった。
その日の午後、悠真は再び図書館へ足を運んだ。いつもの席に座り、経済原論の教科書を広げる。しかし、文字は頭に入らず、視線は自然と隣の席へ向かう。汐里はいなかった。
「そりゃそうだよな…」
彼女がいつもここにいるわけではない。それでも心のどこかで期待してしまう自分が恥ずかしかった。
その時、不意にスマホが震えた。通知を見ると、Spotifyでプレイリストが共有されたことを知らせるメッセージだった。
@shiori28 がプレイリスト「勉強用BGM2024」を共有しました
悠真は驚きつつも、そのリンクをタップした。プレイリストにはクラシック音楽やインディーポップなど、多種多様な曲が並んでいた。どれも落ち着いた雰囲気で、勉強中に聴くには最適だと思えるものばかりだった。
「…これって」
彼女が自分に向けて送ったものなのだろうか?それとも単なる公開設定で偶然目に入っただけなのか?答えはわからない。しかし、そのプレイリストを再生した瞬間、不思議と胸の奥が温かくなる感覚を覚えた。
翌日、悠真はいつものように講義を終えた後、図書館へ向かった。この日は少し早めに行き、前回汐里と隣り合った席に座ることにした。何となく、その席ならまた彼女と会える気がしたからだ。
そして予感は的中した。
「こんにちは、小宮くん」
声に顔を上げると、そこには汐里が立っていた。黒いトートバッグを肩に掛け、小さな笑みを浮かべている。
「あ…こんにちは、高村さん」
悠真は慌てて姿勢を正す。その様子がおかしかったのか、汐里はクスリと笑った。
「またここで会うなんて偶然ですね。それとも…ここがお気に入りなんですか?」
「えっと…まあ、そうですね。この席だと窓から銀杏並木が見えるので」
「確かに。私もこの席好きなんです」
汐里は悠真の隣の席に腰掛けた。そしてバッグからノートパソコンを取り出しながら言った。
「ところで、小宮くん。Spotifyのプレイリスト聴いてくれました?」
その言葉に悠真は驚きを隠せなかった。
「あ…はい!聴きました。すごく良い曲ばかりで…ありがとうございます」
「よかった。それなら共有した甲斐がありますね」
汐里は満足そうに微笑んだ。その笑顔を見るだけで、悠真の胸には小さな灯火がともるようだった。
その日二人は長い時間言葉を交わすことこそなかったものの、一緒に静かな時間を過ごした。そしてその静寂こそが、不思議と心地よかった。
第2章:非接触決済
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図書館での再会から数日後、小宮悠真は昼休みにキャンパス近くのコンビニへ立ち寄った。特に買いたいものがあったわけではない。ただ、昼食を済ませた後の空白の時間を埋めるために、無意識に足が向いてしまったのだ。
店内は昼時らしく混雑していた。悠真は冷蔵棚の前で立ち止まり、サンドイッチを手に取る。すると、隣の棚から聞き覚えのある声がした。
「これ、美味しそうだけどカロリー高いなあ…」
振り向くと、そこには高村汐里が立っていた。彼女は手に取った菓子パンの裏面をじっと見つめている。その姿を見た瞬間、悠真の心臓は跳ね上がった。
「高村さん?」
思わず声をかけると、汐里は驚いたように顔を上げた。
「あ、小宮くん!また会いましたね」
彼女は少し照れたように微笑む。その自然な表情に、悠真は少しだけ緊張が和らぐのを感じた。
「えっと…お昼ご飯ですか?」
「うん、そんなところ。でも迷ってて。これ、美味しそうだけど、どう思う?」
汐里が見せたのはクリームパンだった。悠真は少し考えてから答える。
「美味しいと思いますよ。僕もよく買います」
「あ、そうなんだ。じゃあこれにしようかな」
汐里はクリームパンを手に取り、レジへ向かった。その後ろ姿を見送りながら、悠真も慌ててサンドイッチを持って列に並ぶ。
レジで会計を済ませるとき、汐里がふと振り返った。
「あ、小宮くんも同じタイミングだったんだね」
「え? ああ…はい」
悠真は少し照れながら答える。すると汐里が言った。
「せっかくだから、一緒に食べない?」
その提案に驚きつつも、悠真は頷いた。「はい」と答える声が、自分でも思ったより大きかった。
二人はコンビニ近くのベンチに座り、それぞれ買ったものを広げた。汐里がクリームパンを一口かじると、目を輝かせた。
「これ、美味しい!小宮くん、おすすめしてくれてありがとう」
「いえ…そんな、大したことじゃないですけど」
悠真は照れながらも嬉しかった。汐里が自分の言葉で喜んでくれる。それだけで胸が温かくなる気がした。
その後、二人は他愛もない話を交わした。大学生活や授業のこと、好きな音楽や映画について。汐里が話すたびに、その明るい声と柔らかな笑顔に引き込まれていく自分を感じた。
食べ終わった後、汐里がふと取り出した。
「あ、そうだ。この前の図書館で貸した充電器のお礼ってわけじゃないけど…これどうぞ」
彼女が差し出したのは、小さなチョコレートだった。コンビニで買ったものだろうか。包装紙には可愛らしいイラストが描かれている。
「えっ? いやいや、高村さんには助けてもらった側ですから…そんな…」
「いいからいいから。こういうのは気持ちだからね」
汐里は笑いながらチョコレートを押し付けるように渡してきた。その仕草があまりにも自然で、悠真は断ることができなかった。
「ありがとうございます…。じゃあ、お返ししますね」
悠真はスマートフォンを取り出し、自分のSuicaアプリで100円分の電子マネーを送金した。それを見て汐里が目を丸くする。
「えっ? 何それ?」
「あ…これ、『非接触決済』ってやつです。最近こういう機能あるんですよ」
「へえー!面白いね。でもなんだか堅苦しいなあ」
汐里はクスリと笑う。そして言葉を続けた。
「次からこういうお返しじゃなくて、一緒にお茶でも飲もうよ。その方が楽しいでしょ?」
その一言に悠真は一瞬固まった。しかし次の瞬間には頷いていた。「はい」と答える声が、自分でも驚くほど自然だった。
第3章:待機電力
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11月の冷たい風が図書館の窓を揺らしている。小宮悠真はいつもの席に座り、ノートパソコンと向き合っていた。経済原論のレポート提出期限が迫っているにもかかわらず、進捗は芳しくない。画面に映る文字が頭に入らず、視線は自然と隣の席へ向かう。
そこには誰もいなかった。
「今日は来ないのかな…」
汐里と図書館で再会するようになってから、悠真は自然とこの席に座るようになった。彼女が隣にいるだけで、不思議と集中できる気がしていた。それが今はいないだけで、部屋全体が少し冷え込んだように感じる。
スマートフォンを手に取り、汐里のInstagramアカウント**@shiori28**を開く。新しい投稿はなかった。代わりに、先日見た短歌がふと頭をよぎる。
非接触/ 心と心/ 触れぬ距離/ それでも君と/ 分かち合う午後
その言葉が、自分たちの関係そのものを表しているように思えた。悠真はスマホを机に置き、深く息をついた。
夕方近くになり、スマートフォンが震えた。通知を見ると、それは汐里からのメッセージだった。
高村汐里:お疲れさま!図書館ロッカーNo.28を開けてみてね。暗証番号は私たちが初めて会った日付です :)
「え…?」
突然のメッセージに驚きながらも、悠真は立ち上がり、ロッカーへ向かった。図書館の隅に並ぶロッカー群の中から「28番」を探し出す。そして暗証番号として、自分たちが初めて出会った日付を入力した。
カチリ、と音を立ててロックが外れる。扉を開けると、中には小さな袋が置かれていた。その中には菓子パンが2個。そして、その上には手書きの短冊がマグネットで留められていた。
充電切れても/ 心のバッテリーは/ 満タンです
その短冊を見た瞬間、悠真は胸がじんわりと温かくなる感覚を覚えた。汐里らしいユーモアと優しさ。それだけで、今日一日の疲れが吹き飛ぶようだった。
袋を持って席に戻ると、悠真はメッセージアプリを開き、汐里に返信した。
小宮悠真:ありがとう!びっくりしたけど…すごく嬉しいです :)
送信ボタンを押すとすぐに既読マークがつき、返信が返ってきた。
高村汐里:よかった!レポート頑張ってね。菓子パン食べながら充電して!
その言葉に思わず笑みがこぼれる。そして菓子パンをひとつ取り出し、一口かじった。甘さ控えめのクリームパン。その味わいが、不思議と心まで満たしていくようだった。
その夜、自宅で一人になった悠真はスマートフォンを開き、自分も何か返したいと思った。そしてふと思い立ち、不器用ながらも短歌を書いてみることにした。
君となら/ 待機電力/ 消費せず/ 静かな灯り/ ともしていける
それを書き終えると、不思議と胸の奥から湧き上がる温かさを感じた。しかし、その短歌を送るべきなのか迷いながらも、「今はまだいいか」とスマホを閉じた。
翌日、図書館で再び汐里と顔を合わせた時、彼女は何も言わず微笑んだ。その笑顔を見るだけで、悠真には十分だった。ただ隣で静かな時間を共有する。それだけでいい――そう思える瞬間だった。
第5章:定格周波数
年末が近づき、キャンパス全体が少しずつ慌ただしさを増していた。図書館の窓から見える銀杏並木はすっかり葉を落とし、冬の冷たい風がその枝を揺らしている。小宮悠真はいつもの席に座り、ノートパソコンを開いていたが、画面に映る文字は頭に入らなかった。
隣の席には、汐里が座っていた。
彼女と一緒に図書館で過ごす時間は、悠真にとって特別なものになっていた。互いに言葉を交わすことは少ない。それでも、隣で静かに作業するだけで心が落ち着く。その静寂には、不思議な温かさがあった。
しかし今日は、いつもと少し違う空気を感じていた。汐里はノートパソコンの画面を見つめながらも、どこか考え込んでいるようだった。
「高村さん、大丈夫ですか?」
思わず声をかけると、汐里はハッとして顔を上げた。
「あ、ごめんね。ちょっと考え事してた」
「何かあったんですか?」
悠真の問いに、汐里は少しだけ迷うような表情を浮かべた。しかし次の瞬間、小さく笑って言った。
「ううん、大したことじゃないよ。でも…ちょっと話してもいいかな?」
「もちろんです」
汐里は深呼吸をすると、言葉を紡ぎ始めた。
「実はね…私、卒業後の進路で迷ってるんだ」
その言葉に悠真は驚いた。汐里が3年生であることは知っていたが、進路について話すのは初めてだった。
「京都に戻るか、このままこっちで就職するか…。家族は京都の老舗和菓子屋を継いでほしいって言ってるんだけど、それが本当に自分のやりたいことなのかわからなくて」
汐里の声には迷いが滲んでいた。いつも明るく振る舞う彼女が見せる弱さに、悠真はどう答えればいいかわからなかった。ただ、その気持ちに寄り添いたいと思った。
「高村さんが本当にやりたいことって…何ですか?」
その問いに、汐里は少し考え込んだ。そして、小さな声で答えた。
「短歌を書き続けたい。それが一番やりたいことかな。でも、それだけじゃ生活できないし…現実的じゃないよね」
彼女の言葉には、自分自身への諦めが含まれているようだった。それが悠真には痛いほど伝わった。
「でも…僕、高村さんの短歌好きです」
思わず口から出た言葉だった。汐里は驚いたように目を見開く。
「え?」
「その…僕みたいな人間には難しいことはわからないけど、高村さんの短歌にはいつも元気をもらえるというか…。だから、高村さんには続けてほしいです」
悠真の言葉に、汐里はしばらく黙っていた。しかし次の瞬間、小さく微笑んだ。
「ありがとう、小宮くん。そう言ってもらえると嬉しいな」
その笑顔を見るだけで、悠真の胸には温かな灯りがともったようだった。
その日の夜、自宅で一人になった悠真はスマートフォンを開き、再び短歌を書いてみようと思った。不器用ながらも、一生懸命考えてスマホのメモ帳に打ち込む。
君となら/ 定格周波数/ 合わせても/ 乱れぬリズム/ 奏でられるよ
書き終えると、不思議と胸の奥から湧き上がる温かさを感じた。そして、その短歌を送るべきなのか迷いながらも、「今度会った時に渡そう」とスマホを閉じた。
翌日、図書館で再び汐里と顔を合わせた時、彼女は何も言わず微笑んだ。その笑顔を見るだけで、悠真には十分だった。ただ隣で静かな時間を共有する。それだけでいい――そう思える瞬間だった。
最終章:春雷
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3月の終わり、キャンパスの桜がようやく咲き始めた頃、小宮悠真は図書館のいつもの席に座っていた。窓の外には、まだ咲き始めたばかりの桜が風に揺れている。その淡いピンク色は、どこか儚く、優しい光を放っていた。
隣の席には、汐里が座っている。彼女はノートパソコンを開きながらも、時折視線を外に向けていた。その横顔にはどこか遠くを見つめるような表情が浮かんでいる。
「もうすぐ新学期ですね」
悠真がそう言うと、汐里はふっと顔を上げた。そしていつものように柔らかな微笑みを浮かべる。
「そうだね。でも、その前にやらなきゃいけないことが山積みで…春休みなのに全然休めてない気がするよ」
「高村さんでもそんなことあるんですね」
「もちろん。私だって普通の学生だもん」
そう言って笑う彼女の姿に、悠真は少しだけ安心した。この半年間、汐里と過ごす時間は悠真にとって特別なものだった。図書館で隣り合いながら静かな時間を共有し、ときには短歌を通じて心を通わせた。その穏やかな日々が、このままずっと続いてほしい――そんな願いが胸の奥で膨らんでいた。
しかし、それが叶わないことも知っていた。
その日の夕方、図書館を出た二人はキャンパス内を歩いていた。桜並木の下をゆっくりと進む中で、汐里がふと足を止めた。
「ねえ、小宮くん」
「はい?」
「私ね、やっぱり京都に戻ることにしたよ」
その言葉に、悠真は胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。彼女が決断したことは理解できる。それでも、自分の中で何かが崩れる音がした。
「そうですか…」
それ以上何も言えなかった。ただうつむく悠真を見て、汐里は優しく続けた。
「でもね、小宮くん。私は短歌を書くのをやめないよ。どこにいても、それだけは続けるつもり」
その言葉には力強さがあった。そして彼女はふと立ち止まり、小さな声で短歌を口ずさんだ。
春風に/ 揺れる花びら/ 君となら/ 散る間際でも/ 美しく咲く
その言葉に悠真は顔を上げた。彼女の瞳には迷いも不安もなく、ただ前へ進もうとする意志だけが宿っていた。その姿に、自分も前向きにならなければと思った。
「高村さんならきっと大丈夫です。僕…応援してますから」
その言葉に汐里は少し驚いたようだった。しかし次の瞬間、小さく微笑んだ。
「ありがとう、小宮くん。君と出会えて本当に良かった」
その一言が胸に染み渡った。そして二人は再び歩き始めた。桜並木の下、一歩一歩足音だけが響く中で、それぞれの心には静かな決意が生まれていた。
翌日、悠真は図書館へ向かった。いつもの席には誰もいない。それでも、不思議と寂しさは感じなかった。机上には自分だけのノートパソコンと資料。そしてポケットには、自分が書いた短歌が保存されたスマートフォン。
汐里に渡せなかった短歌。それでも、この気持ちは自分だけのものとして大切にしようと思った。
君となら/ 定格周波数/ 合わせても/ 乱れぬリズム/ 奏でられるよ
彼女との時間は短かった。しかし、その時間は確かに自分を変えてくれた。そして、それだけで十分だった。
窓から見える桜が風に揺れている。その光景を眺めながら、悠真は静かにノートパソコンを開き、新しい季節への一歩を踏み出す準備を始めた。
エピローグ:君との季節
数年後――社会人となった悠真は京都へ旅行する機会を得た。観光地として有名な寺院や庭園を巡る中で、ふと立ち寄った老舗和菓子屋。その店内には小さなギャラリースペースがあり、壁には色紙サイズの短冊がいくつも飾られていた。
その中の一枚に目を留めた瞬間、悠真の胸は高鳴った。
君想う/ 時間は遠く/ 離れても/ 言葉ひとつで/ 心繋がる
その筆跡には見覚えがあった。間違いなく汐里のものだった。
店員に尋ねると、この和菓子屋では毎月地元の文化活動として短歌展覧会を開いているという。そして、その展示作品には店主家族――つまり汐里自身も参加しているとのことだった。
悠真は静かに微笑んだ。そしてスマートフォンを取り出し、自分もまた短歌を書き込む。
君遠し/ 桜舞う街/ 京都にも/ 僕ら過ごした/ 春雷響く