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【小説】幸福という名の檻・・
第1章:幸福スイッチの普及
朝の通勤電車は、いつものようにぎゅうぎゅう詰めだった。主人公のタクヤは吊り革に掴まりながら、窓越しに映る自分の顔をぼんやりと眺めていた。
無表情で疲れ切った顔。昨夜も遅くまで残業し、帰宅してからはテレビをつけたまま寝落ちしてしまった。そんな生活がもう何年も続いている。
「幸福スイッチ、か……」ポケットの中で指先が触れる小さなデバイス。
それは政府が数年前に配布を始めた「幸福スイッチ」だった。シンプルなデザインで、親指で押せるボタンがひとつだけ付いている。このボタンを押すと、脳内に幸福感を引き起こす信号が送られ、ストレスや不安が一時的に消えるという代物だ。
最初は半信半疑だったタクヤも、今では日常的に使っている。仕事で上司に叱られたあとや、疲れ切って帰宅した夜など、気分が沈んだときにはつい手が伸びてしまう。ボタンを押した瞬間、心の中にぽっと暖かい光が灯るような感覚が広がり、不思議な安堵感が訪れるのだ。
「お客様、次は〇〇駅です」車内アナウンスが流れる中、タクヤはふと周囲を見渡した。乗客たちのほとんどが無表情でスマートフォンをいじっているか、幸福スイッチを手にしている。誰もが同じような顔をしていた。目の下にはクマがあり、疲れた表情。しかし、その手には希望の光のようにスイッチが握られている。
「これで本当に幸せになれるのか?」タクヤは心の中でつぶやく。
しかし答えは出ない。ただ、このスイッチのおかげでなんとか日々を乗り切れていることも事実だ。「幸福度」という新しい指標が導入されて以来、この社会では誰もが幸福スイッチを持つことを義務付けられている。
政府によれば、この装置のおかげで犯罪率や自殺率は大幅に減少したという。
会社に着くと、タクヤはいつものようにデスクに座り、パソコンの画面と向き合った。同僚たちも同じように黙々と作業をしている。オフィスには活気というものがなく、ただ機械的な音だけが響いていた。
「おい、タクヤ!」突然、大声で名前を呼ばれた。
振り返ると上司の佐藤課長が険しい顔でこちらを見ている。「この資料、また間違ってるぞ!何度言えばわかるんだ!」机に叩きつけられたファイルを見ると、自分のミスであることは明白だった。タクヤは慌てて謝罪しながら資料を修正し始めた。しかし、その間も課長から嫌味な言葉が飛んでくる。
昼休みになり、一息つこうと屋上へ向かったタクヤはポケットから幸福スイッチを取り出した。
その小さな装置を手のひらに載せると、不思議な感覚が湧き上がる。このボタンひとつで、自分の気持ちが全て変わるという事実。それは便利でもあり、不気味でもあった。
空っぽになった心の隙間を埋めるように、タクヤは親指でボタンを押した。
その瞬間――まず最初に感じたのは、身体全体を包み込むような温かな波動だった。それはまるで冬の日差しの中で毛布にくるまれているような心地よさだった。次第に胸の奥からふわりと軽くなる感覚が広がり、それまで重く沈んでいた気分やストレス、不安感が霧散するように消えていく。
頭の中では何か柔らかな光景が浮かび上がった。それは具体的な映像ではなく、ただ漠然とした「安心感」の具現化だった。幼い頃、公園で母親と手を繋いだ記憶なのかもしれないし、大好きだったペットとの時間なのかもしれない。
それとも単なる幻覚なのか――それすらわからない。ただ確かなことは、その瞬間だけは世界そのものが穏やかで美しく感じられるということだった。
「これでいいんだ……」
タクヤはそう自分に言い聞かせながら空を見上げた。しかし、その青空さえどこか作り物めいて感じられるのだった。
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第2章:カガミ博士との出会い
その日、タクヤは仕事を終えたあと、いつものように幸福スイッチをポケットにしまったまま、家路につこうとしていた。
しかし、どうにも気分が晴れない。スイッチを押して得られる幸福感は確かに心地よいものだが、それが消えると、以前よりも強い虚無感が押し寄せてくるような気がしていた。
「これじゃあ、ただの麻薬みたいなものじゃないか……」
そう考えながら歩いていると、ふと目に留まったのは、古びたネオンサインがちらつく小さなバーだった。
「BAR MIRAGE」と書かれた看板はどこか時代遅れで、周囲の近未来的な街並みから浮いている。普段なら素通りするところだが、その日はなぜか足が止まった。
「少しだけ寄ってみるか……」
扉を開けると、中は薄暗く、静かなジャズが流れていた。客はほとんどおらず、カウンターには白髪交じりの男が一人座っているだけだった。
その男はタクヤが入ってきたのを察すると、ちらりとこちらを見て微笑んだ。どこか不思議な雰囲気を纏った人物だった。
タクヤはカウンター席に腰を下ろし、適当にビールを注文した。グラスを片手にぼんやりと飲んでいると、その男が話しかけてきた。
「君も幸福スイッチを使っているのかい?」
唐突な問いだった。タクヤは驚いて男の顔を見る。年齢は50代半ばくらいだろうか。鋭い目つきで、自信に満ちた笑みを浮かべている。
「ええ……まあ、普通に使っていますけど」
曖昧に答えるタクヤに、男は興味深そうに頷いた。
「普通に使っている、ね。それで、本当に幸せになれていると思うか?」
その言葉にタクヤは一瞬言葉を詰まらせた。幸せになれているのか――自分でもわからない。
ただ、「幸せだ」と感じる瞬間があるだけで、それが本物なのかどうかは疑問だった。
「……あなたはどうなんです? 幸福スイッチを使ってるんですか?」
逆に問い返すと、男は低く笑った。
「私? 私はあんなもの必要ないよ。むしろ、あれを作った本人だからね」
「作った……?」
タクヤの顔色が変わった。この男こそが幸福スイッチの開発者だというのか?
そんな重要人物がこんな場末のバーで酒を飲んでいるとは到底信じられなかった。
「私はカガミと言う。君たちが使っている幸福スイッチ、その仕組みや目的について知りたいことがあれば教えてやろう」
カガミ博士――そう名乗った男は、自分のグラスを傾けながら続けた。
「ただし、一つ忠告しておこう。その装置には秘密がある。そして、それを知れば君はもう二度と以前のようには戻れないだろう。それでも知りたいと思うなら話してやる」
その言葉には妙な重みがあった。しかしタクヤは迷わず頷いた。
この装置について抱えていた疑念や違和感。それらの答えを知りたいという気持ちが勝っていた。
「教えてください。その秘密って何なんです?」
カガミ博士はしばらく沈黙していた。そしてゆっくりと口を開く。
「幸福スイッチという装置はね、人間の脳内記憶を書き換えることで効果を発揮しているんだよ」
「記憶を書き換える……?」
タクヤは信じられない思いで聞き返した。カガミ博士は頷きながら続ける。
「そうだ。本来、人間の感情というものは過去の記憶や経験によって形作られるものだ。幸福スイッチは、その記憶の中から不快な部分やストレス要因となる部分だけを切り取って削除する。そして、その空白部分には『幸福だった』という錯覚だけを埋め込むんだよ」
その説明にタクヤは背筋が寒くなる思いだった。
つまり、自分が感じていたあの幸福感とは、本物ではなく単なる偽りだったということなのか?
「でも、それじゃあ……俺たちの人生そのものが嘘になっちゃうじゃないですか!」
思わず声を荒げるタクヤ。
しかしカガミ博士は冷静だった。
「そうとも限らないよ。多くの人々にとって、本物か偽物かなんて重要ではない。ただ『幸せだ』と思えること、それだけで十分なんだよ」
その言葉には一理あるようにも思えた。しかし同時に、大きな違和感も残った。自分自身の記憶や感情さえも操作されているという事実。
その恐ろしさに気づいてしまった以上、このままではいられないと思った。
「……俺にはまだ信じられません。本当にそんなことが起きているなんて」
そう言うタクヤに対し、カガミ博士は不敵な笑みを浮かべた。
「ならば、自分で確かめてみることだな。この社会全体、その裏側まで覗き込む覚悟があるならね」
第3章:スイッチの裏側
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タクヤはその夜、家に帰ってからもカガミ博士の言葉が頭から離れなかった。
幸福スイッチが記憶を書き換える装置だという話――それが事実なら、自分の人生は一体どれだけ操作されてきたのだろうか。
これまで感じていた違和感や虚無感は、すべてそのせいだったのかもしれない。
「確かめるしかない……」
タクヤはベッドに横たわりながらつぶやいた。だが、どうやって? 幸福スイッチの仕組みを調べるには、政府や企業のデータにアクセスする必要があるだろう。しかし、それは一般市民には到底不可能なことだ。
翌日、タクヤは仕事を終えたあと、再びカガミ博士のいるバーを訪れた。
バー「MIRAGE」は昨晩と変わらず薄暗く、静かな空間だった。
カウンター席には博士が待っていたかのように座っている。
「また来たか。君はなかなか好奇心が強いようだな」
博士はタクヤを見ると、ニヤリと笑った。
「昨日の話、本当なんですか? 記憶を書き換えるなんて……そんなことが本当に可能なんですか?」
タクヤの問いに対し、博士は静かに頷いた。
「もちろんだとも。それが科学技術というものだよ。人間の脳は意外と単純でね、特定の信号を送ることで記憶を消去したり、別の記憶を植え付けたりすることができるんだ。幸福スイッチはその技術を応用したものだ」
「でも、それじゃあ……俺たちは本当の自分じゃなくなってしまうじゃないですか!」
タクヤの声には焦りが混じっていた。しかし博士は冷静だった。
「本当の自分とは何だ? 君が『本物』だと思っている記憶や感情も、脳内で化学反応として生成されているに過ぎない。それが自然に生じたものか、人為的に操作されたものか――その違いを君は感じ取れるか?」
その言葉にタクヤは返す言葉を失った。
確かに、自分でさえも記憶が操作されていることに気づいていなかった。
それどころか、それを「幸せ」と感じていたのだ。
「でも……それでも俺は知りたいんです。本当の自分がどういう人間なのか、本当の記憶が何なのか」
そう言うタクヤを見て、博士は少しだけ表情を和らげた。
「いいだろう。君に手助けしてやる。ただし、その代わり覚悟しておけよ。一度真実を知れば、もう元には戻れない」
数日後、タクヤはカガミ博士から渡された古いノートパソコンとUSBドライブを手にしていた。それらには幸福スイッチに関する内部データへのアクセス方法が記されていた。
博士曰く、このデータベースにはスイッチ使用者全員の履歴や記録が保存されているという。
タクヤは深夜、自宅でパソコンを起動し、USBドライブを差し込んだ。
画面にはシンプルなプログラムが立ち上がり、「アクセス開始」という文字が表示された。
緊張で手汗ばむ指でクリックすると、次々と文字列やコードが流れ始める。
数分後、大量のデータファイルが表示された。
その中には自分自身の名前も含まれている。「田中拓也」というフォルダをクリックすると、中には膨大な数のログファイルが並んでいた。
それぞれの日付ごとに分類されており、「幸福スイッチ使用履歴」「記憶改変ログ」「削除済み記憶」の項目まである。
「削除済み記憶……?」タクヤは震える手でそのフォルダを開いた。
すると、中にはいくつものファイル名が並んでいた。「2019年6月15日」「2020年3月8日」「2021年11月23日」――それらの日付には見覚えがなかった。
しかし、それらの日付ごとに何らかの出来事があったことだけは確信できた。ひとつのファイルを開くと、そこには簡単な概要だけが記されていた。
削除対象:2020年3月8日
内容:家族との衝突による精神的ストレス
処理内容:該当記憶削除
さらに別の日付も確認してみる。
削除対象:2021年11月23日
内容:恋人との別離による精神的負荷
処理内容:該当記憶削除
タクヤは息を呑んだ。このデータによれば、自分は過去に家族との衝突や恋人との別離といった辛い出来事を経験していた。
しかし、それらすべてが幸福スイッチによって消去されてしまったということなのだ。
そして、その空白部分には偽りの平穏な記憶だけが埋め込まれていた。
「俺……こんな大事なことまで忘れてたのか……」胸の奥から湧き上がる怒りと悲しみ。そして、それ以上に強烈な虚無感。
自分自身ですら知らない自分――それこそが今目の前で明らかになった真実だった。
その瞬間、ポケットから幸福スイッチを取り出した。
そして親指でボタンを押そうとした――しかし、その手は止まった。
「もう……押せない……」
幸福スイッチ。その小さな装置に込められた偽り。その存在自体が、自分自身への裏切り行為にも思えた。
第4章:真実への扉
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タクヤは幸福スイッチを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
これまで何度も押してきたこのボタンが、自分の記憶を操作し、偽りの幸福感を植え付けていた――その事実が重くのしかかっていた。
「俺の人生は……一体なんだったんだ?」
家族との衝突、恋人との別離――それらの痛みや苦しみを消されてしまった自分は、果たして本当の自分と言えるのだろうか?
それとも、スイッチによって作られた「偽りの自分」なのだろうか?
頭の中でぐるぐると疑問が渦巻く。しかし、タクヤはふと気づいた。
この装置が自分だけでなく、社会全体に影響を及ぼしているということに。
幸福スイッチを使うことで、人々は確かにストレスや不安から解放されている。しかし、それと引き換えに、何か大切なものを失っているのではないだろうか?
「このままじゃいけない……」
タクヤは決意した。
この装置の真実を世間に明らかにしなければならない、と。だが、そのためにはさらに深く調査する必要があった。カガミ博士が言っていた「社会全体、その裏側」という言葉が頭をよぎる。
翌日、タクヤは再びバー「MIRAGE」を訪れた。
カガミ博士はいつもの席に座り、静かにウイスキーを飲んでいた。タクヤが近づくと、博士はちらりと彼を見て笑った。
「どうやら真実の一端に触れたようだな。その顔を見る限り、少しは覚悟ができたようだ」
タクヤは無言で頷いた。そしてカウンター席に腰を下ろすと、博士に向かって言った。
「もっと知りたいんです。この装置がどうやって作られたのか、そしてなぜこんなものが普及したのか」
博士はグラスを置き、少し考えるような仕草を見せたあと、静かに話し始めた。
「幸福スイッチが開発された背景には、人間社会そのものの歪みがある。ストレス社会と言われる現代、人々は仕事や人間関係、将来への不安など、あらゆる要因で心を病んでいた。そんな中で政府は『幸福度』という新しい指標を導入し、それを数値化することで国民の精神的健康を管理しようと考えたんだ」
「数値化……?」
「そうだ。幸福スイッチは単なる道具ではなく、一種の監視装置でもある。君たちがスイッチを押すたび、そのデータは政府のサーバーに送られ、個々人の『幸福度』として記録される。そして、その数値が低い者にはさらなる対策――つまり記憶改変や薬物投与などが行われる仕組みになっている」
その説明にタクヤは背筋が凍る思いだった。
つまり、この装置は人々を助けるためではなく、管理するために作られたものだったということなのか?
「でも、それじゃあ俺たちはただ操られているだけじゃないですか! 幸福なんて嘘っぱちじゃないですか!」
声を荒げるタクヤ。しかし博士は冷静だった。
「そうとも限らないよ。多くの人々にとって、本物か偽物かなんて重要ではない。ただ『幸せだ』と思えること、それだけで十分なんだよ」
その言葉には一理あるようにも思えた。しかし同時に、大きな違和感も残った。自分自身の記憶や感情さえも操作されているという事実。
その恐ろしさに気づいてしまった以上、このままではいられないと思った。
博士との話を終えたあと、タクヤは一人街を歩いていた。
周囲には幸福スイッチを手にした人々が溢れている。その表情は一様に穏やかで満足げだった。しかし、それを見るタクヤには違和感しか感じられなかった。
「俺もあんな顔をしていたんだろうな……」
そう思うと、自分自身への嫌悪感すら湧いてきた。
しかし同時に、この状況を変えたいという強い思いも芽生えていた。
この装置によって奪われているもの――それこそが、人間として最も大切な「本物の感情」なのではないだろうか?
その夜、タクヤは再びパソコンを立ち上げた。
そしてカガミ博士から聞いた情報を元に、更なるデータベースへのアクセス方法を試みた。
そこには一般市民だけでなく、政府関係者や企業幹部など、高位層の使用履歴まで含まれているという。画面上には次々とコードやファイル名が流れていく。そしてついに――機密データ:幸福スイッチ開発計画
開発目的:国民管理および精神的安定化
副作用:長期使用による人格崩壊リスク
特記事項:高位層(政治家・企業幹部)は使用対象外
その内容にタクヤは愕然とした。
幸福スイッチには重大な副作用――長期使用による人格崩壊リスクがあること。そして、それにも関わらず一般市民には普及させ、高位層だけが使用対象外として守られているという事実。
「結局……俺たちはただ利用されているだけなんだ……」
怒りと絶望感が胸の中で渦巻く。しかし、それでもタクヤは諦めなかった。この真実を世間に知らせる方法を考え始めていた。
第5章:反撃の始まり
タクヤは、画面に表示された「機密データ」の内容を何度も読み返した。幸福スイッチの開発目的、隠された副作用、そして高位層だけがその影響を免れているという事実。
それらは、ただの道具としてスイッチを使っていた彼にとって、あまりにも衝撃的だった。
「人格崩壊リスク……?」
その言葉が特にタクヤの心に引っかかった。
自分の周囲には幸福スイッチを日常的に使っている人々が大勢いる。彼らの中には、最近妙に無表情になったり、感情の起伏がなくなったりしている人もいた。会社の同僚や上司もそうだ。以前は怒りっぽかった佐藤課長でさえ、最近は感情を表に出すことが少なくなっていた。
「これが……人格崩壊なのか?」
タクヤは震える手でデータをUSBドライブに保存した。この情報を世間に公表しなければならない。しかし、それは簡単なことではないだろう。
この装置が普及している社会では、政府や企業がこの事実を隠蔽しようとするのは明らかだった。
翌日、タクヤは再びカガミ博士を訪ねた。博士はいつものようにバー「MIRAGE」でウイスキーを飲んでいた。
タクヤが席に着くと、博士は彼の表情を見てすぐに何かを察したようだった。
どうやら深いところまで踏み込んだようだな。その顔を見る限り、君はもう後戻りできない段階に来ている」
タクヤは無言で頷き、USBドライブをテーブルの上に置いた。
「これが証拠です。幸福スイッチの裏側……副作用や高位層だけが守られている事実まで全部入っています。でも、これをどうやって世間に伝えればいいんでしょうか?」
博士はグラスを傾けながら静かに答えた。
「それを公表する方法はいくつかある。ただし、そのどれもが危険だ。君がこの真実を暴こうとすれば、必ず誰かがそれを阻止しようと動くだろう」
「阻止……?」
「そうだ。この装置には莫大な利益が絡んでいる。政府だけでなく、大企業や研究機関、多くの利害関係者がこの装置によって得をしているんだ。彼らは君のような存在を許さないだろう」
その言葉にタクヤは一瞬怯んだ。しかし、それでも引き下がるわけにはいかなかった。
「それでも……俺はやります。このまま黙って見過ごすなんてできません」
博士は少し驚いたような表情を見せたあと、小さく笑った。
「いいだろう。ならば協力してやる。ただし、一つだけ忠告しておこう。この戦いでは君自身も傷つくことになる。それでも覚悟があるならついてこい」
その夜、タクヤとカガミ博士は秘密裏に動き始めた。
まず最初の目標は、この情報を広範囲に拡散するための手段を確保することだった。カガミ博士には過去の研究仲間やジャーナリストとのコネクションがあり、そのネットワークを使って情報拡散の準備を進めることになった。
一方で、タクヤには別の役割が与えられた。それは、幸福スイッチの製造元である大企業「シンセティック・ラボ」の内部データベースへのアクセスだった。
この企業こそが幸福スイッチの開発・生産・管理すべてを担っており、その内部にはさらに多くの真実が隠されている可能性があった。
「俺一人でこんなことできるんでしょうか……?」
不安げなタクヤに対し、博士は静かに言った。
「君だからこそできるんだよ。君はただの一般市民だ。その立場だからこそ、この社会全体への疑問や怒りを代弁できる存在なんだ」
その言葉に背中を押されたタクヤは、自分自身でも驚くほど強い決意を感じていた。
数日後、タクヤはシンセティック・ラボ本社ビルへと向かった。その建物は近未来的なデザインで、高層ビル群の中でもひときわ目立っていた。
カガミ博士から渡された偽造IDカードとアクセスコードを手に、彼は緊張しながらビル内へ足を踏み入れた。エレベーターで地下フロアへ降りると、そこには厳重なセキュリティゲートが設置されていた。
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しかし偽造IDカードのおかげで問題なく通過することができた。
薄暗い廊下を進むと、大型サーバールームへとたどり着いた。「ここだ……」タクヤは息を整えながらUSBドライブを端末に接続し、指示されたプログラムを起動した。
画面上には次々とデータファイルが表示される。その中には驚くべき内容ばかりだった。
機密プロジェクト:幸福スイッチ拡張計画
計画内容:全市民への強制導入
目的:完全管理社会の構築
副作用:長期使用者への精神的依存強化
さらに恐ろしい事実も記されていた。
それは幸福スイッチによる記憶改変だけでなく、人々への行動制御まで計画されているというものだった。
この装置によって、人々の自由意志そのものが奪われようとしている――それこそが最終目的だった。
「こんなこと……許せない!」
タクヤは全データファイルをUSBドライブにコピーすると、その場から急いで立ち去った。しかし、その背後で微かな足音が聞こえた。
振り返ると――そこには黒いスーツ姿の男たちが立っていた。その冷たい視線から明らかだった。彼らはシンセティック・ラボ側の人間であり、自分の行動がすでに露見してしまったということだった。
最終章:取り戻した記憶
タクヤは黒いスーツ姿の男たちに追われながら、必死に逃げていた。シンセティック・ラボの地下フロアは迷路のように複雑で、どこへ向かえば出口にたどり着けるのかもわからない。ただ、USBドライブに収めたデータを守るために走り続けるしかなかった。
「待て!」
背後から男たちの怒声が響く。タクヤは息を切らしながら廊下を曲がり、非常階段を駆け上がった。
だが、その先にはまた別の男たちが待ち構えていた。
「ここまでだな」
冷たい声とともに銃口が向けられる。タクヤは立ち止まり、絶望的な状況に追い詰められたことを悟った。
「お前たちは……人間じゃない! こんな装置で人々の自由を奪って、何が幸せだって言うんだ!」
叫ぶタクヤ。しかし、男たちは冷笑を浮かべるだけだった。
その瞬間――
「そこまでだ!」
どこからかカガミ博士の声が響き渡った。
同時に、照明が一斉に落ち、部屋中が真っ暗になった。混乱する男たちの隙を突いて、タクヤは博士の指示通り別の通路へと逃げ出した。
数時間後、タクヤは博士とともに安全な隠れ家へと身を潜めていた。USBドライブは無事だったものの、彼自身は疲労困憊で、その場に崩れ落ちた。
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「これで……終わりですか?」
タクヤの問いに対し、博士は首を横に振った。
「いや、まだ始まったばかりだ。このデータを公表するには準備が必要だ。それよりも……君自身の記憶について考えたことはあるか?」
その言葉にタクヤは顔を上げた。
「俺の記憶……?」
「君は幸福スイッチによって多くの記憶を消されている。その中には、おそらく君自身が知りたくないと思うような事実も含まれているだろう。それでも取り戻したいと思うか?」
その問いにタクヤは一瞬ためらった。
しかし、自分自身を取り戻すためには避けて通れない道だと考え、力強く頷いた。
「お願いします。俺は本当の自分を知りたいんです」
博士は静かに頷き、小型の装置を取り出した。それは幸福スイッチとは逆の機能を持つ装置――消去された記憶を復元するための特別なデバイスだった。
装置が作動すると、タクヤの脳内に次々と映像が浮かび上がった。
それはこれまで忘れていた過去の記憶だった。家族との楽しい思い出や恋人との幸せな時間――しかし、それだけではなかった。
次第に映し出される映像は暗く重いものへと変わっていった。
家族との激しい衝突、恋人との別離。そして――最後に現れた記憶。
それは、自分自身が幸福スイッチ開発計画に深く関わっていたという事実だった。
記憶:数年前
白衣を着たタクヤが研究室でカガミ博士とともに幸福スイッチについて議論している場面だった。
「これでいいんです。本当に人々が幸せになれるなら、一部の記憶くらい消しても問題ないじゃないですか!」
若い頃のタクヤが熱弁している。
その顔には迷いも疑念もなく、自信と使命感だけが宿っていた。
そして、その隣には今と同じカガミ博士が立っていた。
「君には覚悟があるようだな。しかし、この装置にはリスクもある。そのことを理解しているか?」
「もちろんです。でも、人々が苦しむよりマシです!」
その言葉とともに映像は途切れた。現在へ戻ると、タクヤは全身から冷や汗を流していた。自分自身が幸福スイッチという装置を作り上げる側だったという事実――それこそが消されていた記憶だった。
「俺……俺自身が……」
震える声でつぶやくタクヤ。
その横で博士は静かに言った。
「そうだ。君はこの計画の中心人物だった。そして、自分自身にもスイッチを使うことで、その事実を忘れる道を選んだんだ」
その言葉にタクヤは膝から崩れ落ちた。
自分自身で作り上げた装置によって、自分自身すら欺いてきたという事実。それこそが彼にとって最も耐え難い真実だった。
その後、タクヤはUSBドライブ内のデータを公表することなく破壊した。
この社会全体への怒りや疑念よりも、自分自身への嫌悪感や後悔が勝ってしまったからだ。そして彼は再び幸福スイッチを手に取り、そのボタンを押した。押した瞬間――再び心地よい安堵感が広がり、それまで感じていた苦しみや後悔が霧散していく。
そして彼は再び何も知らない平凡な日常へと戻っていった。
エピローグ
街中では今日も多くの人々が幸福スイッチを手にしている。
その中には、一見穏やかな表情で歩くタクヤの姿もあった。彼の日常には何の波風も立たず、「幸福」という名の平穏だけが広がっている――少なくとも本人にはそう思えている。
しかし、その背後ではカガミ博士だけが静かに見守っていた。
そして小さくつぶやいた。
「本当の幸福とは、一体何なのだろうな……」