【どん底で割ったくす玉】 ~小さな町の靴屋から、日本のスニーカー修理のパイオニアへ~
こんにちは!100歳図書館の事務局メンバー【ライター担当】えっちゃんこと柴田 惠津子です!
今回ご紹介する人生最高の1枚の写真
「どん底で割ったくす玉」
~小さな町の靴屋から、日本のスニーカー修理のパイオニアへ~
いったい、くす玉を笑顔で割っている男性とどん底が、どのようにつながるのでしょうか……?
お写真の持ち主は、日本でも数少ないスニーカー修理専門店「シューリペアセンターカナムラ」を経営する、金村 昭彦さんです。
スニーカー修理店が日本にほとんどなかった1990年代、スニーカー修理業をゼロから立ち上げた金村さんは、日本のスニーカー修理のパイオニアとして知られる存在でもあります。
お店があるのは、成田空港にも近い千葉県香取郡多古町。人口減少や少子高齢化などの課題を抱えながらも、個性豊かな住民たちが団結し、地域活性への取り組みが盛んな地域です。
一時、不安定な地域と家業のなかで、どん底を味わった金村さんは、一念発起してスニーカー修理の道へ。今や、芸能人をはじめ、全国各地から修理依頼が絶えない人気店に成長しました。
今回は、笑顔でくす玉を割る金村さんが写る「人生最高の1枚の写真」、その当時の奮闘を語っていただきます。
2021年現在、コロナ禍で、どのように仕事と向き合い、今後を見据えて行動したらいいのか……。金村さんのお話には、たくさんのヒントが詰まっています。
お写真に込められた金村さんの想いを2021年3月27日 「つながる100歳図書館」で語っていただきました。
この記事では、そのエッセンスをまとめてご紹介していきます。
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意気消沈して、ショッピングセンターから撤退する日の出来事
- くす玉を割っているお写真。お祝いの席にも見えますが、金村さんにとってどんなシーンなのでしょうか。
年齢的には(今から26年前)40歳くらいのときになりますね。
わたしはもともと成田空港に近い千葉県多古町というところで店を構えていた家業の靴屋を継ぎ、靴の修理業を営んでいました。
多古町は人口13000人くらい(2021年現在)の小さな町ですが、靴屋だけを営んでいくのは、非常に厳しい時代になっていて、このままでは今後生きていけないだろうな、と思っていました。なので、靴販売に加えて、靴修理に比重を置いてなんとか経営していました。
とはいえ、東京への通勤圏というにはちょっと遠い場所ですし、革靴を毎日履いている人も少ない状況なので、経営状況は芳しくなかったですね。
そんなとき、近くに大型ショッピングセンターが開業しまして。靴修理店を1ブース出さないか、とお声がけいただいて店を出すことになりました。
でも、土地柄上、靴修理の依頼が増えるわけではなく、ブースの賃料もかさみますし、将来の見通しが立たないなと思ったんですよね。3年くらいがんばりましたが、結局そこを出ることになりました。
- かなり厳しい状況だったんですね。でも、なんでくす玉が……!?
ショッピングセンターのブースから撤退する日、ほかの店舗の方々に挨拶に回るのも寂しくて気が引けましたので、このまま黙って帰ろうかなと思っていたんです。
そうしたら、ほかの店舗の方が、ちょっと待ってくれないか、ということで。
突然、近くの居酒屋を貸し切ってお別れ会を開いてくれたんです。各ブースの店員さんたちが、25人くらい集まってくれていました。
本当にサプライズだったので、鳥肌が立つというか……感動しっぱなしで……。
皆さんがメッセージ入りのくす玉までつくってくれて、写真はそのくす玉を割ったシーンになります。
こうやって、いろいろなブースの方々が仲良くしてくださって、お別れ会も開いてくださったのが、人としても非常にうれしいと思いました。
……でも、経済的には1番どん底というか、靴屋もうまくいかない、靴修理もうまくいかない、というときでしたよ。
どん底ではじめた、手探りだらけのスニーカー修理業
- 苦境に立たされた金村さんは、どうやって次の1歩をふみ出したのでしょうか?2021年現在、コロナの影響で、今までの仕事がうまくいかない方々もたくさんいらっしゃるなか、本当に他人事ではないなと……。
どん底な状態にあっても、次に何かあるんじゃないか、ということを常々考えていました。
1990年代当時、エアマックス95というスニーカーが爆発的に売れていて、たくさんの人たちがスニーカーを履く時代に変わりつつありました。
なので、スニーカーだったら、マーケットが無限大にあるんじゃないかなっていうものすごい妄想的な夢を抱いて、スニーカー修理業をはじめました。
- 金村さんにとってスニーカー修理は、初めての試みですよね。当時はどんな心境だったのでしょうか。
きっと、お客さんになるのがスニーカーのマニアの方々だとわかっていたので、いい加減な修理は絶対にできないと思っていました。
当然のことながら、自分のことをスニーカー修理の職人とは思っていません。というのは、宮大工さんとか寿司職人さんとか、いろんな職人さんがいますけど、職人っていうのは長い歴史があって、積み上げられたノウハウがあってはじめて職人といえるのであって。自分も職人だ、って言ったら、いろんな職人さんたちに怒られるんじゃないかなって思っています。
日本でのスニーカー修理という文化は、まだはじまったばかりで手探りな状態でもありますし、ノウハウも蓄積されていないので、これからだと思っています。
- スニーカー修理業をはじめるにあたって、まずどんなことから取り組んだのでしょうか。
最初は、スニーカーをさんざんばらして、直し方を自分で研究して実際に試してみる、ということをやっていましたね。そうしてはじめて、スニーカー修理という看板を出しました。
インターネットも普及しはじめたころでしたので、自分でホームページを2、3か月かけてやっとつくりました。パソコン、身近な同級生たちのなかではわたしが1番早く買ったんじゃないかな。
当時インターネット上には、スニーカー修理のお店はうち1件しかなかったと思います。なので、おそらくスニーカー修理業を全国で1番早くはじめたと思うんですけれども。誰もやっていなかったので、ますます、これからはスニーカー修理だって思いましたね。
でも、スニーカーを修理したい人たちっていうのは、一定の地域で考えたらすごく限られた人数しかいないと思うんですよ。だから、多古町とか近隣の人たちだけを対象にしていたら、ぜんぜん商売にならないわけです。
なので、インターネットを使ってお客さんを集めるようになったら、沖縄から北海道まで、広範囲からご依頼が集まるようになりました。
- インターネットを使うことで、多古町から全国、ひいては世界まで、お客さんの幅を広げてスニーカー修理ができるようになったんですね。おそらく、全国初のスニーカー修理業を立ち上げた第一人者でもある金村さんとして、とくに大変だったことはありましたか?
まず1番困ったのは、修理における材料がないことです。
問屋さんには靴修理の材料はあっても、スニーカーを対象とした材料は一切置いていないんですよ。洋服屋やホームセンターをはじめ、ありとあらゆる問屋さんを回って、いろんな工夫をしながら修理をしていました。
今は靴修理の問屋さんでスニーカー修理用の材料も手に入るようになってきましたが、当初はこんな苦労があるなんて思いもしなかったので、ものすごい大変でした。
それから、スニーカー修理の値段設定も、頭の悪いわたしが最初だったので、申し訳ないなと思ってはいるんですけどね(笑)もともと靴屋という小売業を営んでいたのもあって、値段が高すぎちゃいけないんじゃないかっていうのが体に染みついているからだと思いますが、反省しています……。
- 金村さんがスニーカー修理業界の礎を築いてこられたといっても過言ではないのですね!すごい!!今、お写真のくす玉を割っているころの、スニーカー修理業をはじめる前のご自身に声をかけるとしたら、なんて声をかけますかね?
いや~~、このあとも厳しいぞって(笑)
でも、地元に根を下ろして、地道に仕事をするなかで、多古町の皆さんと知り合いになれたことは人生において強みですし、うれしさもありますね。
行き詰まったら、ちょっと新しいことをやってみるのもいい
- 2021年現在、コロナによる影響で、商売替えなど方向転換を考えざるをえない方もいらっしゃると思います。金村さんならどう考えますか?
個人的には、しばらくコロナ禍がつづいて、今のままじゃもたないと思ったとしたら、現在の事業を一時的に休んで、その間にちょっと新しいことをやってみるのもいいんじゃないかと思っています。
もとの事業を残しておいて、いいタイミングがきたときには、再出発することもできるはずですから。
- 金村さんはこれから挑戦したいことはありますか?
実は、これまでに、スニーカー修理と並行して、スニーカーリメイクも手がけてきたんですよね。これも自分の思いつきではじめた事業でしたが、使わなくなったジーンズやTシャツ、風呂敷、成人式の着物の帯などでオリジナルスニーカーをつくっていたら、スニーカーメーカーの方々も認めてくだって、手広くやらせていただいていました。今はメーカーさんの体制が変わってできなくなってしまったんですが(泣)
これからについては、構想を練っているところですが、スニーカーリメイクに代わるちょっと新しい、楽しいことをやりたいなぁと思っています。
- 日本でスニーカー修理業がどう生まれたのか、どん底からどう今にいたってきたのか、とても貴重なお話を聞かせてくださり、ありがとうございます。2021年はコロナによって先行きが見通せなかったり、行き詰まりを感じたりする方も多いと思いますが、まずは現実を素直にとらえて、先を見据えながら、目の前にあるものを最大限に活かしながら前に進んでいく意識が大事だということを学べたように思います。これからの金村さん、多古町に、とてもワクワクしています。
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金村 昭彦さん プロフィール
好きな言葉「本気であれ」
小学生時代に毎日眺めていた、多古第一小学校の玄関にある言葉
1955年8月22日生まれ、66歳(2021年現在)。千葉県香取郡多古町在住。
日本のスニーカー修理業を1990年代の黎明期からけん引し、国内では数少ない職人として、スニーカー修理専門店「シューリペアセンターカナムラ」を経営している。芸能人をはじめ、全国各地から依頼が絶えない
*シューリペアセンターカナムラ
http://www.portland.ne.jp/~kanamura/
近年は、住民主体の地域包括ケアの取り組み「タコ足ケアシステム※」メンバーとして、まちの活性化にも尽力している
(※商店街・学校・町役場・介護・福祉事業者の人々がゆるやかにつながり支え合う多古町独自の取り組み)
*ケアからはじまるまち育て「タコ足ケアシステム」
(10:30からシューリペアカナムラの紹介)
https://medjapan.org/02carewelfare/aritasoichi/
*「タコ足ケアシステム」とは
(多古町移住定住情報発信サイト)
https://www.town.tako.chiba.jp/ijyu/longlife/
これまでの活動略歴:
・多古町祭礼筆頭頭取(2021年4月まで)
・多古町商工会理事(2021年5月まで)
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