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日曜の朝

 独身の頃に住んでいたアパートは、目の前に大家さんの家があった。大家は七十過ぎの爺さんで、いつも牛乳瓶の底みたいな分厚い眼鏡を掛け、中日ドラゴンズの帽子をかぶっていた。
 話好きな人で、一度喋り出したら容易に止まらない。ただ、早口で滑舌が悪いものだから話の内容が甚だわかりづらい。それで同じ話を何度も繰り返す。「愛知万博に七回行った」という話を一時間で五回聞かされた時には随分閉口した。
 それでも甚だ面倒見の良い大家さんで、日曜の朝にはいつも食パンと木綿豆腐を全部の部屋に配って回る。
 一度、どうしてその組み合わせなのかと訊いたら、安いからだと返って来た。安い食品は他にもありそうだが、ただでくれるものに難癖や注文を付ける法はないから、いつも余計なことは云わずにもらっていた。

 ある朝目覚めたら、遅刻ぎりぎりの時刻になっていた。
「うーわ、まじか……」
 うんざりしながら飛び起きて、急いで歯を磨いていたら玄関の呼び鈴が鳴った。
 きっと大家の老人に違いない。
 食料配布はありがたいけれど、平日のこんな時間では具合が悪い。放ったまま髪を梳かしていると、今度は呼び鈴の連打が始まった。着替えて支度を終える頃には、ドアの新聞受けをパカパカやりながら「おーい、起きろー」とやっていた。
 鞄を持って、幾分ムッとした心持ちで玄関を開けると大家さんはまだそこにいた。
「おっ、起きたか。何だ、あんた今日も仕事かね。日曜なのに大変だなぁ」
「え?」
 それで自分が曜日を間違っていたとわかった。随分損をしたように思われた。

 アパートを出た後も大家さんとはしばらく賀状のやりとりをしていたが、どうかした弾みに途切れてしまった。あれから二十年ほどになるから、事によるともう会えないのではないかと思う。

エンディングテーマ
Sunday Morning / The Velvet Underground & Nico


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百裕(ひゃく・ひろし)
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