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「防災を伝える会社」を立ち上げました!

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たくさんの人に支えられ、たくさんの人に応援され、2020年春、株式会社百年防災社は設立しました。「みんなで生き延びるんだ」というスローガンとともに、防災の意義、防災の重要性を多くの人に広める活動をします。株式会社百年防災社の代表取締役社長の葛西優香から見た「防災」について、発信していきます。

小学2年生で経験した「阪神淡路大震災」

1995年1月17日、母と姉と畳の部屋で寝ていた。「ゴ〜」という大きな音が聞こえた次の瞬間、大きく揺れた。「布団をかぶって!」と母の声。音と揺れがおさまり、立ち上がろうとしたが重たい。ぐ〜と力を入れて、倒れてきた襖を除ける。
我が家は、テレビも落下、納戸のタンスが倒れ中に入れず、リビングの食器は全て食器棚から落ちていた。布団から出てすぐに、単身赴任中の父に国際電話をかけた。
ガラスだらけの家にいることが不安になったので、「外に出よう」と玄関に向かったが、リビングと玄関を結ぶドアが開かない。廊下にある棚から物が全て出て、ドアを防いでいる。ガラスでできたドアを母が台所の包丁を持ち出し割る。ガラスを割った隙間から手を伸ばし、荷物を除けて、ドアを開けた。母の手は傷だらけだった。

10階に住んでいた私たちは、階段で駆け下りた。「大丈夫だった?」と、いつも挨拶をしているご近所さんの声。次の瞬間、「ほれ!」と6階に住むお姉さんに手渡された靴下。「誰かが裸足で逃げてくるんちゃうかな〜と思って。棚から溢れ出た靴下を思わずかき集めてきたんよ〜」とお姉さんは私たち3人に靴下を貸してくれたのだ。急いで出てきた私たちは、裸足であったことも気づいていなかった。
温かい。その靴下の感触だけ覚えている。何が起こったのかわからなかったが、「ホッ」としたことだけは小学2年生だった私も覚えている。

東日本大震災で決意した「防災を伝える」ということ

人生2回目の揺れは、すぐに地震だとわかった。就職し、配属先の東京で仕事をしていた私は、31階のビルの中。フロアは、女性の叫ぶ声、掛け時計が落ち、割れる音。騒然とした。すると、目の前に上司が一人で立ち去る姿が飛び込んできた。「人は、パニックになると、思いもよらない行動をとってしまう」と、その時思った。次の瞬間、自身が経験した、阪神淡路大震災、JR福知山線脱線事故(当時、事故現場の先の駅で電車を待っていた。友人も乗車していた)、そしてつい数分前のことが走馬灯のように蘇ったと同時に、「私は防災を伝える」と決心した。
「災害は備えていれば、周りの人との協力があれば助かる命がある。でも事故は自分では防ぎようがない…」当時から、頭の片隅で考えていたこと。何を伝えられるか、明確になってはいなかったが、とにかく会社を飛び出した。

「自助・共助・公助」ってなに?

まずは、コミュニティF M局で発信を始めた。災害時には地域の被害状況などに放送内容が切り替わる地域のラジオ局だ。阪神淡路大震災もラジオから発信する情報で多くの人が励まされ、現在では約350局がまちの情報発信を行っている。とにかく、「防災を伝える」ということだけで動いた私は、”ラジオ局の人”として、区役所、消防署、警察署、地域を周り、「何か備えておこう」という話をしながら歩いた。
「防災」の書籍や論文、他地域で行われている「いわゆる防災の活動」を調べていると、次の言葉が出てくる。

「自助・共助・公助」
自分のことは自分で助ける=自助
家族や近所の人と助け合う=共助
行政の支援を受ける=公助

この3つの視点を学んだ時、心から納得した。

それぞれの自宅で我が家のように災害時、食器が割れないように、棚が倒れないように対策を行うことが「自助」。
電気の傘などで下敷きになって出られない時、助けてくれるのは、家族やご近所さん、これが「共助」。
そして、罹災証明の発行など支援を受ける申請手続きを実施するのが「公助」。

この3つのバランスが成り立つことで「防災」の備え・対策ができるということを実感する。地域を回っている私にとって、最も大切で、向上させると助かる命が増えると考えたのが「共助」だ。

「株式会社百年防災社」で防災を世の中に伝える

「ご近所同士で助け、助け合う」ことは、実家の近所では当たり前のようにあった。挨拶もしていた。しかし、東京に出てきて、隣近所の人の顔も知らない。一人暮らしをしていた当時は、誰も助けてくれる人は近くにいない、そして誰も助けられない状況だった。

しかし、地域を回っていると、毎年防災訓練が開催され、防災を啓発している町会がある。区役所の防災関連部署は常に助成金や訓練実施用の資機材を貸し出している。私も動き出して初めて知った、この現状。私みたいに知らない人がたくさんいるかもしれない。でも知ることで少しでも災害への準備ができる。

だから、決めた。「共助を伝える。共助を創る」。私自身も同時に学びながら、2011年から防災に特化して活動を続け、まもなく10年になる。一個人の活動だけでは、すごく時間がかかる。もっともっといろんな方と協働して、他分野の専門的視点を取り入れて、コンテンツを発信していきたい。そう思った時、覚悟を決めた。百年いやもっと前の先人たちの知識を学び、続けること・進化させることを整理し、百年いやもっと先まで「防災の知恵」を伝えていきたい。一方的な「伝える」で終わらず、双方向で対話をし、「享受」していきたい。
そして日本人が生み出した知恵を世界につなげる。
そう決心して設立した会社が「株式会社百年防災社」である。

2011年3月11日、私が「防災を伝える」と決めた日。
あれから、もうすぐ10年。
毎年、災害は起こっている。災害を防ぐためにはどうしたらいいか、みんなで考えていきながら、お伝えしますので、これからよろしくお願いいたします。

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