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プロフェッショナルに学べ! 菅野孝明さん 浪江日記①
現在、浪江町で生活している人は、約1,500名(令和3年1月31日現在。浪江町ホームページより)。東日本大震災以前の人口は、約21,000人。震災前の人口と比べて、約7%の人口です。平成23年3月11日の東京電力福島第一原子力発電所の事故により、町内全域に出されていた避難指示は、平成29年3月31日、「帰還困難区域」を除く区域で解除されました。しかし、まだ、町外で避難生活を続けている住民は数知れず。この状況下で町のコミュニティをどう再構築しているのか、一般社団法人まちづくりなみえ事務局次長 菅野孝明さんにお話を伺いました。
浪江町の今
私が初めて浪江町を訪れた時は、約4年前、震災直後の情景がそのまま残っていました。傾く家、崩れたブロック塀。町民が避難したままの町並み。毎年伺うごとに少しずつ町並みも変わり、新しい建物ができたり、取り壊しが行われて土地が整備されたり、変化を続けています。
そして、昨年末訪れた浪江町には、「道の駅 なみえ」が完成。夜にはライトアップが行われ、まちが灯で明るく照らされていました。昼間、「道の駅 なみえ」を訪れると、明るく出迎えてくださる従業員の方々の笑顔が溢れていました。
一般社団法人まちづくりなみえ事務局の菅野さんは、まちの人の声を聞きながら、新しい取り組みを創り出し、住民が計画した活動を一緒に実践し続けています。
1500人のコミュニティ
「今、浪江で生活している人たちは、自宅に帰れたことの安堵感が大きい。スーパーや医療機関の不足を感じる面もあるのかもしれないが、『不便だ』と話す方は少ないです。元々あった町の中の49行政区。49地域の区分けは存続しているけど、いまだに帰れない地域もあり、元には戻らないと思っている。どう再構築していくかと考えたら、いくつかの活動を合わせて、構築していくしかないと考えています」と菅野さんは語ってくれました。
解体された家の跡地に草が生え始め、整備が進んでいるとは言えない状況。環境が十分整っているわけではない。でも菅野さんは焦ってはいません。「防犯の見回り」、「お花の水やり」、「お茶会」など少しずつ住民が集まって活動が行われています。住民の声を聴きながら、少しでもやりたいことが見えたら、形にできるように見逃さずに拾い、一緒に形にしていくことを続けている菅野さん。戻ってきた人のコミュニティが少しずつ再構築されています。
「持続可能な地域にするには、そんなにすぐには進みません。避難指示解除前から6、7年で課題はまとまってきました。時間をかけて、未来を想像しながらゆっくり進むことが大切と思っています」と多くの課題や問題の解決に取り組んできた菅野さんは4年前に決めた覚悟を胸に今も浪江で活動を続けています。
「早く復興しなければならない」とは思っていない
東日本大震災発生時、福島県川俣町出身、東京で仕事をしていた菅野さんは、震災を機に人生を見直したそう。自分の人生の中で大切なことに正直に向き合い、故郷での生活を再開することを決めたのです。2012年に浪江町の臨時職員として業務に携わり、町の復興計画作成に携わり、一般社団法人まちづくりなみえの立ち上げを推進し、浪江の未来を創り続けています。
この町にかかわってきて、「気づいた時に考えればいい。このままでもいいんだと楽観視しているかもしれない」と菅野さん。焦って、まちを再構築しようとしても無理だ。人は一人一人考えていることも違い、大切にしていることも違う。その違いを相互理解して、捨てないといけないこと、新しく構築しないといけないことを整理しながら進んでいくことが大切だと教えていただきました。
早く復興しなければならない、元のまちに戻さないといけない。なんて、全く思っていない菅野さんのお話。そして、浪江町で暮らす方々の考え。お話を聞いて改めて、私たちが想像している以上にまちの今を見つめながら、ハード面、ソフト面、両面から町との対話を続けていることを感じたのです。
次回の記事では、コミュニティ構築に向けて、住民から出ているキーワードについてお伝えしていきます。
あなたは今、自分の住んでいるまちで大きな災害が発生し、住めなくなる可能性を考えたことがあるでしょうか。
災害が発生したとしても、生活を元に戻すには、今、住んでいる時からできることってなんだろうか、日常から一緒に考えていきませんか?