世界一美しい銀河の旅『銀河鉄道の夜』についての考察
四半世紀近く生きているけれど、何年経っても新しい人間関係を築くのは面倒であり面白くもあるな、と思う。
今年の4月も例に漏れず新しい出会いが多くあったのだけど、実際問題みんな初対面の人と何話すの?
私はあまりにも定型的だなと自分で思いながらも毎度同じような質問をしては「頭が良い人って他人に質問するのが上手いよな〜」なんて自虐的なことを考える。
そんな中、ある人との会話の流れで銀河鉄道の夜が好きだいうことを話した。
私は大学時代はじめて『銀河鉄道の夜』を読んだ時に泣いた。
話の内容に、というよりかは表現のあまりの美しさに、という方が近い気がするけどそれで泣くとか自分でも正直よくわからなくて怖い。
多分なんかあったんだと思う。
というわけで今回は、そんな涙の『銀河鉄道の夜』について好き勝手に話していこうと思う。
『銀河鉄道の夜』は日本の詩人・童話作家である宮沢賢治の代表的な童話作品の一つで、少年ジョバンニが親友のカムパネルラと共にケンタウル祭の夜に不思議な銀河鉄道の旅をする物語である。
1924年頃に初稿が執筆され1931年頃まで推敲が繰り返されたが、1933年の賢治の死後、草稿の形で遺された。
初出は1934年に刊行された文圃堂版全集。
1974年発行の筑摩書房版全集の編集過程では綿密な検討が行われ、4回にわたる改稿が行われたことが判明した(と言われている)が、初期形と言われる第1〜3次稿と最終形と言われる第4次稿では大きな違いがあるそうだ。
私が読んだのは"最終形"で(これだけ有名な作品で今更ネタバレとか言う人のことはしらないので(無慈悲ですまん)言ってしまうけど)カムパネルラがあの意地悪なザネリを助けて川で溺死してしまう方の話だ。
ちなみに、助けられて生き延びたザネリのことをおもいながら米津玄師の「カムパネルラ」という楽曲を聴くとこれまた泣ける、という話はまた改めて書こうと思う。
じゃあ、初期形ってなんなの?って話なのだけど、先に謝っておくと私自身も実際に本を入手して読んだわけではないので細かいところとか間違ってるかも。テヘッ陳謝。
先程最終形を"カムパネルラがあの意地悪なザネリを助けて川で溺死してしまう方"の話といったが、まあつまり初期形というのは"そうでない方"の話ということになる。
第1次〜3次稿と第4次稿で異なる部分は多数あるけれど、私が最も大きな変更だと感じた点は物語の結末である。
初期形には"ブルカニロ博士"という、最終形で跡形もなく消し去られてしまったキャラクターが存在し、物語の最後にジョバンニが銀河鉄道で見聞きしたことは自分の実験であったと告げるのだ。
カムパネルラが銀河鉄道から突然姿を消してしまうところに違いはないけれど、目を覚ましたジョバンニがカムパネルラがザネリを助けて溺死したことを知る場面はないため、カムパネルラが【他者のために自己を犠牲として死んだ】ことは明記されていないことになる。
そうなると、私みたいな”自己犠牲”とか”他者貢献”とかの精神がほぼないに等しい人間としては「なぜこんな結末になってしまったのだろう、、、」などと徳の低いことを思ってしまうのだけど、一旦この結末について自分なりに真剣に考えてみようと思う。
長くなってもいいよん(☆)って人は読んでみて。
既に長いけどさ(☆)
まず、この物語の主題は”ほんとうの幸とは何か?”ということであると考えられる。
銀河鉄道に乗ったカムパネルラが突然思い切ったように「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか」と言う場面がある。
そして、母が幸せになるならば自分はどんなことでもするけれど、母の一番の幸せが何なのかわからない。けれども誰だって本当にいいことをしたら一番幸せなのだから、母はきっと許してくれるだろう、
と自答を行うのだ。
この時点でカムパネルラがこの物語の中での"ほんとうの幸"である【他者のための自己犠牲の死】を遂げたことを知らないジョバンニは、カムパネルラの言う”ほんとうにいいこと”や”いちばんの幸せ”が何かをわかっておらず、その後鳥捕りと出会う場面で見ず知らずの鳥捕りのほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年続けて鳥を捕ってもいいと考えるのだった。
この場面でジョバンニの考える"ほんとうの幸"がカムパネルラの言う"ほんとうの幸"と異なっていることがわかる。
その後、船が沈没した際に家庭教師先の姉弟を他人を押しのけてボートに乗せることはせず、このまま神のお前にみんなで行く方が本当に姉弟の幸福なのではないかと思い溺死した青年と姉弟の話や
今までいくつもの命をとって生きてきたが、自分がイタチに食べられそうになった時に逃げて井戸に落ち溺死したサソリが、死ぬ間際に自分が命を惜しんだことを悔いて”次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください”と神に願い、真っ赤な美しい火になって燃えて夜の闇を照らした
という話を聞いたジョバンニは、カムパネルラに「ほんとうにみんなの幸のためならこのからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」と言い、同時に「けれどもほんとうのさいわいはいったい何だろう。」ともう一度考える。
そして”ほんとうの天上”が見えた時、そこに母の姿が見えたカムパネルラと白くけむって見えるだけのジョバンニが対照的に描かれた後、突然カムパネルラが姿を消し、ジョバンニは窓の外に向かって激しく叫び泣き”ほんとうの天上”(=現実世界)に戻って親友カムパネルラの死を知るのだ。
この銀河鉄道の旅とカムパネルラの死を通じてジョバンニは【他者のための自己犠牲の死】を覚悟した上で"みんなのほんとうのさいわい"を探しに行くのではないだろうか。
新たに書き加えられた、午后の授業の章などで描かれる学校でのジョバンニとカムパネルラの様子。
また、ラストシーンのカムパネルラの死などがなければジョバンニにとってのカムパネルラがどのような存在だったのかが曖昧で、彼が【自己犠牲の死】を遂げることでより強調されるこの物語の中でのほんとうの幸とはなにかが伝わりづらくなってしまっていたかもしれないな、、、と結論付けることで自分を納得させている。
いつまで経ってもカムパネルラが川から上がってこないのにみんなはまだ彼はどこかの波の間から出てくるか、あるいはどこかの人の知らない洲にでも着いて立っていて誰かが来るを待っているような気がしているのに対して
「ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。」という記述がある。
美しい表現がたくさんあるのに私は全編を通してどうしてかその一節が一番好きなのだけど、それはきっとこの一節がよりジョバンニとカムパネルラの銀河の旅を他の誰も知ることのない特別で大切なものに感じさせるからではないか、などと考える。
『銀河鉄道の夜』は童話作品でありながら、生と死について考え"ほんとうの幸"とは何かを問う作品である。
ここまで銀河鉄道の夜についての私の解釈やら感想やらをつらつらと述べてきたが、皆さまにも是非銀河鉄道の夜を読んで美しい銀河の旅を想像し、涙しながら"ほんとうの幸"を考えて、ぜひこの物語を自分なりに解釈してみて欲しい。
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