素顔の幸福~秦基博シングル『泣き笑いのエピソード』に思う幸福論
人は心に何を描くのだろうか。生まれたばかりは誰もが、しみ一つ無い真っ白いキャンバスを持っている。時間が経つ毎に、その上にはいつしか濃密に明暗を持つ線や色が刻まれ、気付けば喜びも悲しみもごちゃ混ぜになった場所に人は立っている。
現在放映中のNHK朝ドラ『おちょやん』の主題歌、秦基博『泣き笑いのエピソード』。ドラマの主人公、千代の目まぐるしく変わる人生にいつも翻弄され“泣き笑い”しながら、この曲を聞くことが出来る幸せを日々味わっている。ドラマの主人公の人生を反映した飾らない歌詞と温かみのあるフルートなどの木管楽器を使用した曲、秦さんの爽やかで優しい歌声。全てが調和された、明るくて暖かな陽だまりのような楽曲だ。 《オレンジのクレヨンで描いた太陽だけじゃ まだ足りない気がした 涙色したブルー こぼれて ひろがって ほら いつも通りの空》 平坦な日本語とローズピアノの音が、すーっと沁みるように心に入って来る曲の冒頭。オレンジ色で描いた太陽と、広がるブルーの空。クレヨンで描いた温かさと涙で零した冷たさの色の対比はそのまま感情の対比を示す。主人公の笑顔と泣き顔その物のように。 ドラマの内容に触れれば、主人公、千代は幼い頃から意思の強い子供だった。近隣の家の人が貧しい彼女を気遣って出してくれた食事も、「うちは可哀想やない!」と言って断ってしまうし、毒親に家から追い出された時も「うちは捨てられたんやない、うちがあんたらを捨てたんや!」と実父に大人顔負けの啖呵を切る。彼女が周囲を振り切る度に見せる、涙と意地で輝く瞳に圧倒されるばかりだ。そうした悲痛な叫びを子供に言わせてしまう背景を、大人は可哀想と考えるのかも知れないが、千代にとっては、自分の発する言葉が、何も拠り所のない自分自身を動かすための翼だったのだ。 自分の素直な心を社会には見せまいとする千代。秦さんの主題歌は、そんな主人公の隠された素顔を代弁しているかのようだ。 《笑顔に会いたくなるけれど 今はでも弱音ははかない そう強がってる お腹の音が鳴ったら 大丈夫のサインだ 泣き笑いの日々を行こう》 秦さんは辛い境遇の少女が明るくパワフルに進んでいくこの『おちょやん』の脚本からイメージし、『泣き笑いのエピソード』を作ったと言う。この曲の中にいる間だけ千代は、眉間の皺を緩め手足を伸ばして、年相応に微笑んでいられる。一人になった時の素顔の彼女が鏡のように、この曲に映し出されている気がする。そう千代が最愛の亡き母を月に重ねて、空を見上げる時と同じように。
この『泣き笑いのエピソード』を聞いて思い出したのは、『寺内貫太郎一家』などで知られる脚本家、故・向田邦子さんのドラマ『幸福』の中で語られる一節だ。 《素顔の幸福は、しみもあれば涙の痕もあります。思いがけない片隅に、不幸のなかに転がっています。屑ダイヤより小さいそれに気がついて掌にすくい上げることの出来る人を、幸福というのかもしれません。》 主人公の妹、踏子のこのナレーションで締めくくられた『幸福』の脚本は、彼女の対照的な二人の兄の生き方を通して、真の幸福とは何かを問いかけている。長兄は社会的に成功し嘘にまみれた幸せを、誰からも愛される二番目の兄の主人公、数夫は汗と涙と血が滲んだ幸せを摑んだ。幸せに正解はないが、踏子は最後に、他から見れば気付かずに通りすぎてしまうような小さな輝きを見つけられる事が、幸福なのだと悟る。 生きるのが下手な『幸福』の数夫と生きるのに必死な『おちょやん』の千代は、どちらも恵まれた境遇ではないが仕事を疎かにしない点でよく似ている。その勤勉さが協力者を呼ぶのである。無口な数夫の言葉の重み、千代の自分を動かす為の意地っぱりな言葉の使い方、相反するような二人の生き方には共通点がある。たとえ幸せより不幸せの爪痕の方に目が行ってしまう毎日でも、言霊を信じる。それが真の幸福を呼びよせるのではなかろうか。朝ドラでは、次から次へと数々の事件が千代を襲い失敗したりもするが、いつも変わらずにこの主題歌は、温かく彼女を包み励ます。この歌には、何度聞いても安心できる言霊があるからだ。 《笑顔をあきらめたくないよ 転んでも ただでは起きない そう 強くなれる かさぶたが消えたなら 聞いてくれるといいな 泣き笑いのエピソードを》 優しいけれども力強い言葉で満ちている秦さんの『泣き笑いのエピソード』は無論ドラマだけの物ではなく、今を生きる全ての人への応援歌にもなっている。あまり良いことがないと思っている人も、これから自分の持つごちゃ混ぜのキャンバスに散りばめられた、小さな素顔の幸福に気づけたら、きっと素敵だと思う。 秦さんを含め、様々な音楽に触れる度に、気づかされる事は多い。音楽が心を後押ししてくれる優しい世界を見つけられた事が、今の私のささやかだが揺るぎない幸福なのかも知れない。