1冊目 読めないと付き合う 『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(保苅実,2004)
“今月中にとりあえず1本は書くことを目標にしている。”
なんて?????もう6月だけど????「今月中に」??なんだって???
びっくりした!!!本当にびっくりしている。丁寧に選書して動向を見守ってくださっていた数少ない方々もびっくりだと思うが、読むのに3ヶ月かかった。その間何一つアクションがなかったので企画倒れしたのだろうと思った方もいるだろう。申し訳ない。信じられないと思うが世の中には318ページの本を読み切るのに3ヶ月かかる大学生も存在する。俺も信じられない。最初にいうがこの本が面白くなかったとかでは全くなく、企画のことをすっかり忘れていたとか、何か大病を患っていたとかいうわけでもない。感想の前にこの三ヶ月間のことを話させてくれ。
本が読めない
あんまりにも春休みがおしまいの様相を呈していたため企画したこの読書感想文noteは、ディスコードサーバーで皆様のおすすめを募ってそれを俺が読み、拙いながらも感想を書くという感じで進めていく予定だった。親切な方々が色々と教えてくれた本は70冊以上になり、「いや〜春休み中は流石に無理っすね。在学中になんとか読めるよう頑張ります!」ってな感じだったのだが、結局春休み中は一冊も本を読めなかった。春休み中どころか三ヶ月たってようやく一冊である。おすすめしていただいてすぐに数冊大学図書館で借りることができ、入手も難しくなかったのだが、俺は自分の無気力を舐めていた。全然読めない!!!読めないというか読まないというのか先延ばし癖がエグいというのか目が滑るというのか、兎にも角にも読めなかったのである。
繰り返しにはなるが、別にはちゃめちゃ忙しかったとか、元気のなさがもうどん底で生死の境を彷徨っていただとか、本が趣味に合わなかったとかいうわけではないのである。ただただ日々にエネルギーがなかった。俺は生きてるだけで常に疲れていた。
そんなことを言えるほど学業やバイトを頑張っているとか、残酷な境遇にあるとかではないということは己が一番よく知っている。現在俺は20歳で世間からするとまだ若い部類だし、体力もあるでしょうとか言われるかもしれない。大学にも行けて恵まれているはずだ。
そう!!!!そうなんだけど!!!!!いろんな特権に生かされてるはずなんだけど!!!!!!!でも俺には体力がなかったの!!!!!!ゴミ出しも掃除もままならない日々だったの!!!!生きてるだけでうんざりだったの!!!!!文字を追うことすらできねぇ日々だったの!!!!!そんなに大変な目に遭ってたわけじゃないのに全然本が読めなかったの!!!!!
でもこれって俺のせいだけじゃなくない?!俺だけが極端に怠け者とかそういうんじゃないと思う!!そうだよね!!だって実際皆さん生活していて本って読めます…!?朝起きてご飯食べて学校とか会社とか行ったり家庭の色々こなしたりスーパー行って買い出ししたりさ…献立とかいう自炊パズルもできなくてなんかずっと食パンだけ食ってたりさ…生きてるだけでめちゃくちゃ疲れるんだけど???Twitterくらいしかできないんだけど???最近はTwitterさえできなくてインスタのリールを無限にスクロールして気づけば空が白み出して風呂すら入れてないのにもう朝4時で、みたいなクソみたいな時間の使い方をしている。この時間を読書にあてればいいのにね!!!でも俺だけじゃないと思う!!!みんなもこうだよね!?!生活って大変すぎない?????
生活と読書を両立するのって本当にすごいことだよ。読める人はすごい。本当にすごい。どうやってんの??俺無理だったんだけど??読める人はどうやって1日の中に読書を組み込んでいるのか教えてください…絶対需要のある情報なので…逆にいうと俺みたいなメソッドも何もない叫びには需要なんてないと思うが、でも俺みたいなやつもいるんだよ!を世界のどこかに残しておくことも大事なんじゃないかとも思う。社会から求められてることがあまりにも多くて圧倒されちゃって疲れ果てて何もできないぜ!みたいな叫びも意味があるかも…と信じているので俺は俺でこれを書くね…
『ラディカル・オーラル・ヒストリー オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』 (保苅実,2004,御茶の水書房)
前置きだけ異常に長くなってしまった。そろそろ感想文に入ろうと思う。前置きにも十分書いたが、俺はこの本を読み切るのに3ヶ月かかった。だが、逆にいうと3ヶ月読み続けられたというか、時間こそかかりはしたがギブアップはしなかったのだ。それはひとえにこの本の切り口のユニークさや軽やかな語り口、そしてこの本が向いている方向が非常に俺には居心地が良かったからだと思う。
『ラディカル・オーラル・ヒストリー』、著者保苅実氏の博士論文を基礎とした、オーストラリア先住民アボリジニ、グリンジの人々の歴史実践に関する本である。この本の特徴的な点は、副題にもあるように「歴史」の本であるところだ。フィールドワークを中心とした本書での検討の体系は、「歴史学」ではなく「人類学」とかに近いのかな?と思ったのだが、筆者は自身を明確に「歴史学者」だと述べているし、歴史学者の視点からの学術書であるというのが非常に意味のあることだということがこの本を読めばわかるだろう。「歴史とは何か」「歴史家とは誰なのか」という歴史学の根本に疑問を呈する、非常に「ラディカル」な一冊だ。
というのも、グリンジの人々の歴史認識というのは、近代西洋的・学術的な歴史認識とは一線を画すスタイルでもって存在している。具体例を挙げると、「1924年に起きた洪水は、レインボウ・スネークと呼ばれる水を司る大蛇にグリンジの長老が依頼したため発生した」「グリンジカントリーにケネディ大統領が訪問し、イギリスと大戦争を起こすことを約束した」「キャプテン・クックがボートでシドニーに上陸し、内陸を旅しアボリジニの人々を撃ち殺していった」… どれも「事実」「史実」として記録のない、あり得ない話かもしれない。こういった歴史分析は排除されてきた。少なくとも「あなたたちの認識はそうなんですね、否定しませんしそれは尊重しますよ(もちろん事実としてはありえないという留保付きで)」とか、「大蛇というのは〇〇のメタファーで…」というようにしか受け入れられない。
こういったグリンジの人々の歴史分析をそのまま「歴史」として受け入れる試みが本書ではなされている。グリンジの人々のオーラルヒストリーの主体として、単なる情報提供者、学術界からは利用されるだけの客体である人々を、「歴史家」として捉えたときに、「彼らはどんな歴史実践をしているのか」というのが本書の中心となる問いである。マジカルをマジカルなままで、排除しないで共存する、そんな温かで挑戦的な一冊だ。
わたしがここで断固として拒絶したいのは、「我々は正しい歴史を知っている」、「かれらは間違った歴史を語っている」といった、歴史学者による安易な独断である。
つまるところ、本書の目的は、アボリジニの歴史家たちから歴史分析を学び、西洋近代に出自を持つ学術的歴史実践と、先住民グリンジの歴史実践のあいだのコミュニケーションの可能性を考察することにある。
歴史学者、西洋近代出自の学術会による歴史の生産の独占を批判し、その特権的地位を揺さぶる、「歴史表象における歴史学者中心主義」からの離脱、そういった非常に面白い試みが本書ではなされている。歴史の多元化、異なる歴史時空の接続と共存の可能性を探る試みだ。
史実性という呪縛から完全に解放された歴史学の方法をまじめに模索する必要があるのかもしれない……
ここまで読んでみてどうだろうか?おもしろそう?おもしろそうだけど難しそう?俺もそう思ったし、実際難しい話も多かった。俺は文系大学生なれど専攻は法学で歴史学には門外漢だし、歴史に関する学術書というのも読んだことがなかった。保苅氏のユーモラスな語り口がハードルを下げてくれてはいるものの、元は博士論文だし…実際3ヶ月かけてちまちま読んでいたのも、この本の学術書としての完成度の高さゆえであるとも思う。要はしっかりちゃんと難しいことも言ってたよ!全部理解できたとは正直思えてないよ!ってことなのだが、それでも最後まで読めたのは、やはりこの一見かなり困難にも思える挑戦的な内容と、既存の権威を壊してやる(そこまでは作者も思ってないかもしれないが、結果的にそこには既存権威へのしっかりした批判がある)という態度が興味深く、そして何より「著者、これ書くの楽しかったんだろうな〜〜」が全体を通して力強く伝わってきたからだ。
「むずかしいですよ、でも試してみる価値はあるはずだから、一緒にやってみませんか?」
これ!!!!これに全部詰まってると俺は思う!!!この文言が比較的初めの21ページで出てきてくれたのもあって、難しい内容でも最後まで読もうと決意が早々に固まった。だからこの3ヶ月間、読み切ることは諦めなかった。たしかに時間はかかりすぎたけどね。
形や言い方、分野は違ってもこの思いを抱えている人はたくさんいるんじゃないかなと俺は思う。「この世はクソ!本当に地獄!絶対刺してやるからな!」だったり、「恨めしい恨めしい殺す殺す殺す」だったり、「こんなのは絶対におかしい!変えないといけない!」だったり、「こんな方法おもしろいんじゃない?ちょっとやってみようよ」だったり…上述の引用部分もこれらの一つな気がしたのだ。
現状を変えてみたいと願う、祈りの表出の形の一つが本書だと思う。この祈りを体験したことがある人は、きっとこの本を、著者を応援したくなる。俺はこの祈りを知っているぞ、体験したことがあるぞと強く共鳴するものがある。
強い祈りは時に悲痛で乱暴な言葉にもなる。俺はそれを全然悪いことだとは思わないしその鋭い言葉の力も知っているから大事にしたいが、そんな言葉を抱えるのに疲れることもある。自分の暗い感情が波のようで、呑まれてしまって底まで落ちて動けない。もう闘いたくないと思う。そんなとき、この祈りをユーモラスに、しかし真剣にそして真摯に文章にした本書になんだか救われる。植民地的権力構造や学術界権威に批判を向け、常に歴史家としてのグリンジの人々に真摯であることを目指し、開かれた幅広い歴史の形を目指す本書はきっと闘うあなたと共にある。偉大な仕事の集大成だ。それを本当に心から楽しそうにやっているこの本には人を癒す力があると思うのだ。疲れているよな、悲しいよな、でも祈りを知っているあなたに、この本はいつでも開かれている。ここにも闘っている本があったのだ。
動けないし読めないがそこにいる
本書ではたびたび、歴史実践における身体性や経験を強調する。また、著者は日本から遠く離れたオーストラリアの地で学び、数年かけたフィールドワークを経て本書を書き上げた。これは卑屈で引きこもりな俺が悪いのかもしれないが、なんかすごくアクティブだよな…とも落ち込んでいる時は思うのである。国境どころかベッドからも出られない俺にはなんとも縁遠いというか、実際距離めっちゃ遠いし。海外の大学で博士号とって現地で数年フィールドワークかぁ〜研究者って強〜〜俺は本も読めねぇのによぉ〜〜〜〜すげぇな〜〜〜と阿保みたいに思ったりもしたのである。とにかく、布団から動けなくて本もなかなか読めない俺は本書との距離も確かに感じた。
この感想文でも何度か著者の保苅実氏をユーモラスだとか楽しそうだとか、アクティブでポジティブな人物として紹介したと思う。保苅氏は、本書の発行を前にがんにより逝去している。本書は闘病の中、死を目前に執筆作業がされたもの(元となった博士論文自体は氏の発病前に執筆された)である。
本書全体を通した保苅氏へのポジティブでアクティブなイメージと、遺作であるという事実のギャップに読了後圧倒されるものがあり、今もまだうまく言葉で説明できずにいる。
本書はあくまでも、僕が元気にオーラル・ヒストリーのフィールドワークを行い、いろんな本を読みあさりながら制作した博士論文を大幅に加筆修正した日本語版だと考えていただきたい。
読者のみなさんにも、末期がん患者の本というよりは、一人の元気な若手研究者の業績として本書を読んでいただきたい。
上記が著者の希望であるし、受けた印象としてもまさに「一人の元気な若手研究者の業績」であったから、俺もこの本の紹介に末期がん患者とか、早逝した研究者の遺作という言葉はあまり進んで使いたくない。ただこの著者の死に関する事実が、著者という主体の歴史の有り様が、本書に他の歴史学の学術書とは異なる風合いを持たせていることは、俺の読書体験を振り返ったときに否定できないなとも思った。
アクティブで勢いあるユーモラスな研究内容と、著者あとがき、著者の研究の協力者が寄稿したエッセイ、そして最後まで読んでわかる第1章副題「幻のブック・ラウンチ会場より」の意味。生と死、動と静が全て包括された本書は、なんだかんだ動けない読めない俺を排除しなかった。
この3ヶ月間、読みきれていない「ラディカル・オーラル・ヒストリー」はいつも俺と共にあった。カバンの中にもいたし、枕元にもいたし、一旦図書館に返したりもした。ただそこにあっただけだけど、ゆるやかで何者にも縛られていない長い長い読書体験だったと思う。読めてないんだけど、動けてないんだけど、何者をも排除しない著者の歴史に対する姿勢は俺にも優しかった。ただそこにあるだけの歴史。横たわるだけの俺が持っている歴史。たくさん動いてたくさん勉強してたくさん楽しんで書き上げられた歴史学の本。いろんな歴史がある。
20年後
さて、僕もこうして、一枚の花弁を投げ込むことができた。ゆっくりと爆発を待とうではないですか。 二〇〇四年五月 保苅実
保苅氏が投げ込んだ花弁が今日どうなっているのか、そもそもこの「ラディカル」な本の歴史学における評価も俺は知らないが、著者の祈りが少しでも形になっていれば、尊重されていればいいなとここに小さく祈る。
あと全然見当はずれな指摘だったら教えて欲しいんだけど、統合失調症とか認知症とか、精神疾患患者の個人史とのコミュニケーションにも繋がる内容だったのかなとか、社会的弱者、周縁化されてきた地方の歴史、客体でしかあり得なかった人々、まなざされることの暴力的な側面を受容させられてきた人々が語りを取り戻すこととか、今もいろんな人が闘っているフィールドにおいても有用な研究なのかもとか、20年前の本だが未来に希望が持てるような内容だったと浅識ながら思った。
最後に
俺もまさかこれを一本書くまでに3ヶ月かかるとは思っていなかったが、それほど落ち込んだりはしておらず、こういう読書体験記もあっていいかな〜くらいに今は思えている。とはいえ本をおすすめしていただいた方々に一切の進捗報告をしなかったのは不誠実だったかもしれない。やっぱり読むのに時間がかかりすぎているというのは少し後ろめたくもあったのだ。最後にお詫びと改めて協力への感謝を記しておく。
この文章自体もまあまあ長くなってしまった。そろそろ終わります。あまり読みやすい文ではなかったと思いますが読んでくれてありがとう。『ラディカル・オーラル・ヒストリー』すごく面白かったです。読めてよかった!時間はかかりましたが1冊目としてとても良い選択だったなと終わってみて思います。この本は大学の書庫(学生は入れないので検索して取り寄せしなきゃいけない)にあったので、知らなければまず辿り着けない本でした。歴史に対するアプローチの多様性の提唱とか、普段俺が大学で学んでいることともかなり分野が違うので、ひとりでは読まない本だった。本当におすすめしていただいた人には感謝しかありません。個人的に、この本をおすすめしてくださった方がどうやって読むに至ったのかも気になるな…
この記事の公開に3ヶ月かかったのを考えると、次の公開がいつになるかは本当にわからないのですが、気長に見守ってください… 別記事でおすすめしていただいた本一覧も公開しているので、気になった方はぜひ俺の感想を待たずに読んでみてくれ。全然読めてないが、おすすめ本の募集自体は引き続き続けるので、もしよろしければあなたのイチオシも教えて欲しい。読むのがいつになるのかはわからないが…