居場所としての安堵感を
私個人は人の恋愛に対して口出しをしない、したくない主義だ。過去の過ちから学んだ事もあるしあえて自分が駄目だと認識出来る方へ行く事で安心を得ていた時期もある。私の家は正直誰もうまくいっている夫婦が存在しない。祖父母は祖父が亡くなるまで一緒に居たし祖母は祖父の亡き後やはり祖父を想っている。唯一の夫婦だと思う。
ただし夫婦間がうまくいっていたかは解らない。
むしろ時代柄昔らしい事柄は多くあったし祖父はお酒が好きで手をやく事もしばしば。私は祖父と同居していなかったから詳しくは実体験してないけれど喧嘩っぱやい叔母は馬乗りで殴り合いになった話を聞いた。とにかく夫婦という概念と護りたい家庭の為にお互い様で支え合う姿勢というものを知らない、そんな家柄なのだ。
私には6年程付き合った人が居た。
正確には付き合ったり別れたりを繰り返した。
精神的な疾患や自傷行為等で随分困らせて傷つけてしまった。
私が精神的に毎度鋭利な言葉でタックルしまくる事で夜通し話した事もあったし真夜中に泣く私を受け止めてくれた事もあった。私がかなり我儘放題して振り回していたし一貫性の無い当時の私の言動や行動で困惑させてしまったと思う。それでも私には彼が必要だった。
何もせずに支えてくれなんて言わないからお互い切望しても手に入らない足りない愛情を支え合う事をしたかった。
色々な価値観の違いや諸々で私個人は結婚を真剣に考えていたけど話し合いに話し合いを重ねて「もうお互い頑張ったのだから充分やりきった」という結論を出した。強がっていたかもしれないし本当に自分が成長する為にあえて自分を厳しい環境に置かなくてはいけないと追い詰められていた。
そして別れた事で晩年の愛犬の介護に私の全てを捧げる事が出来たし私が来るのを待っていてくれた愛犬を傍で手を握り看取る約束を叶える事が出来た。
思い返せば私は友人の結婚もあり結婚に対して焦りを感じていた。それ故交際相手の気持ちや環境を鑑みず自分の親元から離れたい一心を押し通そうとして頑なに凝り固まって甘えと我儘を無理やり通してしまっていた。
パニック障害や強迫性障害、HSPや様々な精神的疾患を複雑に抱えていてもそれを受け入れてくれる相手は稀だ。勿論ただ黙ってという訳にはいかないので話し合いや色んな事が沢山起こる。
私自身こんな私と付き合えば相手を不幸に巻き込むとずっと悩んでいた。
私個人が強く依存してしまいがちなので微妙な匙加減が難し過ぎて、別れて以降恋愛は距離を置いている。
だからと言って自分の価値観を押し付けたくない
人にはそれぞれその時に必要な人が居ると思っていて、それは世評に左右されるべきでは無いしお互いにとって安堵出来る居場所なら良いと思う。
人間簡単には変われないし本質も変わるには時間が掛かる。むしろ本質はほぼ変わらない。なので私個人は当人が良いと思っているのなら何も言わない事を決めている。全てそこで判断するのは当人だし当人達の問題だからだ。相談があれば勿論話を聞いて客観的にどう思ったかは話す。そこで止める。
例えそれが薄情に聞こえても、日々を限界で暮らしてる人の唯一の本音を出せる相手なら奪う権利は例え友人だろうが無いから。
そしてその本音を出せる安堵感のある人の代わりは務められないから。
パートナーとの事で困っていたらその時は問題を一緒に考える事まではする。決断はあくまで本人が考えてすべきだ。
この考えに至ったのには理由がある。
私の祖父の妹さんは慕った人との結婚を許されず練炭自殺をしている。
祖母が祖父と結婚する時も反対されたが、妹さんの様に自殺が繰り返されるのではと思い祖父の母親である曾祖母は結婚を認める事となった。
当事者どうしでしか解らない事や感覚が確かにあると確信している。それが例え周囲から良い反応をされなくとも。
その人が傍にいて一緒に過ごしてくれる事でなんとか達成出来る事も中にはあるのだ。
だから他人の恋愛などを勝手にジャッジする事は個人的な主義としてしない事を決めている。
パニック障害や強迫性障害の孤独感は
耐え難い
毎日息をするのも辛いと感じる事もあるし目が覚めなければ良いのにと感じる事もある。平均寿命まであと何十年なのか考えると鬱になる。
誰かと支え合えたなら。そんな事は幾度となく考えてそしてやり方が解らなくて億劫で頓挫する。自分が難ありなので相手に申し訳ないと感じて想像する事が難しい。だからネットで彼氏が居るから今日も生きられる、パニック発作が出なかった、出ても彼氏が手伝ってくれるというのを見かけると単純にそれが生きる理由で充分だと思う。周囲が勝手に評価したりすべきでは無いし例え依存の状態だとしても本人が自分で気付くまでそっと見守っているべきだと勝手に思っている。
勿論DV等直接的被害がある場合は話は別だけれど。
偽善的であるだろうけど
安堵感を得られる居場所として成立するのであれば個人的にはそこに介入する事はしたくない。
して嫌な気持ちになるのもされて嫌な気持ちになるのもお互いにとって何も無い。余程見逃せない犯罪に巻き込まれていなければ他人がジャッジする事では無いのだと思う。最近も友人と話したけれど私は友人達に背中を押して貰って別れた事について今は感謝している。
そのお陰で全力で愛犬にだけ今まできちんと向き合うことの出来なかった限られた時間を使えたし足りていなかった愛情を注げたのだ。
自分の性格が非常に厄介なのできちんと話せないと気が済まない。お互いの健闘を祈るよと握手をし喧嘩別れにならなかった事も含めて相手に感謝しているし充分頑張ったと教えてくれた友人にも感謝している。
周囲の人達の
「次いこ次!」に対するプレッシャー
前向きに考えて欲しいという意味合いを込めてそう言って頂けるのは大変に有り難いのだ。
但しそう簡単な事じゃない。全ての病状や自分の立場や環境をまた一から話す事は正直面倒臭い。
受け入れられる保証も無いし子供も望めないので「こんな私を良いと思ってくれる人なぞ存在するのだろうか?」と思ってしまう。
色んな事を隠さずに話す様になって凄く今は楽さを感じている。隠さなくなった事で繋がれた人達が優しさをくれるからもっと早くからカミングアウトしておくべきだったとも感じる。でも多分今なのには意味があるだろうから卑屈にならずに考えていきたい。
纏まりのない文面ですが。今日は頭痛が凄いのでここでおしまい。