より自分を追い詰める行為
昔、私は自分自身を傷付ける事で
精神的なバランスを保とうと必死になった事が有る。
昼夜逆転生活
拒食症へ片足をつっこむ事
精神的な辛さを肉体的な痛みに変換する事
あらゆる薬を飲んでみたり
より強い薬が欲しくて「効かない」と嘘をついた
10代の一番転落しはじめて間もない頃
とにかく絶望しか無くてどうやって自分の存在を無かったことにするかずっと考えていた。
学生の頃「死」に取り憑かれた。
あの呪いは一度切望すると付き纏って離れない。
義父のプレッシャーで突き放された気持ちになり
あの瞬間頭の中で何かが弾ける音が
ハッキリとしたのだ。
生まれて初めて聞いた最初で最後の音だった。
同時にもう終わりなんだと諦めがどす黒く
心の中を塗り潰していって死を決意していた。
とても幼稚な発想だとは解っている。
しかし何とかして思い知らせたかった。
私の抱いた苦しい気持ちを目に見える形にするには短絡的だがそれが一番手っ取り早い。
誰しも通るだろうが自死の方法を連夜調べて
あらゆる方法と結果を考え迷惑の最小限な方法を探したが、迷惑が掛からないものが無いという結論が自分の中で出てしまった。
どれをとったとしても迷惑は掛かるのが自死だと解ったのだ。そして恐怖もまた拭えない。
確実性に欠ける。
現実的でない。
そう思いながらも長い事その呪いに縛られた。
それらを誤魔化す為か自分の気持ちを偽る為か
自らを追い詰める事や思考に偏っていった。
好きでやっていた訳ではないけれど
勿論理解はされないのでそういう自暴自棄が
症状の辛さを増幅させているのだとあちこちから言われていた。反論できまい。
長年掛かって、自分で自分を追い詰める行為が
脳の防御反応でもある事を知る。
それまでは解らないから自分を追い詰め結果的に傷付ける行為(駄目だと解っていて駄目な事をやる)を何故やるのか聞かれても解らなかった。
むしろ私が教えて欲しかった。
どうして辞められないのか?
こんな事をしたい訳では無いのに。
そこに関しての知識は何処からも入って来なかったし自分でも調べなかった。
割と最近になって認知行動療法の事等を含め
パニック等のメカニズムを調べていて
耐えきれなくなった心を守る為にあえて自分を追い詰める行為に走る事があると知った。
難しい事は解らないけど納得した気がした。
漫画等でもよくあるのでは無いだろうか。
幻覚や耐え難い精神的な苦痛に見舞われた時
自分自身を刺したりして正気を取り戻す
こんなシーンをドラマでも漫画でもよく見るのでは無いだろうか。精神的な苦痛は肉体的な苦痛に変換する事で一時的にリアルな世界に精神が戻ってくるのだと思う。
目に見える傷は痛みの強弱や治っていく経過が可視化されるので見えないよりは安心なハズ。
残念ながら私の学ではここまでしか書けない。
このメカニズムも知らずひたすら追い詰め
それが何故やってしまうのか解らず苦しんだ。
今はそのメカニズムを受け入れたので
肉体的な苦痛に変換しなくてもやり過ごせる。
過去に私が自分を傷つけて追い詰める事を
理解できない
そう言った友人が最近同じ事を口にした。
自分を更に追い詰めると解っていて
翌日になって欲しくないので寝たくなくて
深夜になっても起き続ける事や
元々あった暴飲暴食の癖が強くなり
お腹が下ると解っていてアイスを食べてしまうのだとか。
しかし明日が来て欲しくないというのを周囲に言っても自分が追い詰めているんだから仕方がないというニュアンスしか返ってこないのだそう。
私自身はその友人の気持が痛いほど解る。
何度日が昇ることを憎んだだろう。
明日がくる事が怖くて憎くて絶望して。
起きて抗った末に不眠のスパイラルにはまった。
あの頃確かにその友人は理解できないと言った。
私はそれがショックだった。
理解できないとしても肯定出来ないとしても
友人には沈黙していて欲しかった。
甘えていたのだと思う。
歳月がたってまさか自分が逆の立場に立つとは
微塵も思っていなかった。
私は友人に、悪いと解っていて自分を追い詰める駄目な行為に走ってしまう事は辛いけれどあるよねと言って気心知れた友人なので決して軽くでは無く「解るよ」と共感した。
友人は酷くホッとした様子だった。
人に話せば責められるから、中々打ち明けられなかったんだとか。確かに。それも解る。
打ち明けるに値すると思って貰えた事は有り難い事だしそこに応えられているかは解らない。
けれどメカニズムとしてある事を頭ごなしに否定するのは私は一番嫌な事なのでしたくない。
自分ではどうしようも無い部分もあり得る。
半分一緒に持てた事は私にとっても過去を赦す気がしてなんだかホッとした。
勿論友人にはそのサイクルからなるべく早く抜け出して貰いたいし安心して眠れる様になって欲しい。それは心からそう思っている。
私に出来る事は何もないので同じ立ち位置から
ずっとここに居る事を示す事だけだ。
ただ黙って家に招き泊まって貰い黙ってご飯を出しゲームをしダラダラ過ごす事も
今回の様に話をして半分に手を添える事も
既に限界を越してるのにまだ先に限界を設定しようとしている人にそれではきっと遅いからもっと早くても良いのでは?と提案する事も
人によって対応は変えるし
相手が今一番何を必要としているかプロではないし見極めるのは凄く難しい。
けど、私の昔の事が役立つならなんだって出したい。カードを沢山机に広げるみたいにして一緒にこれはどうか、これならどうだろうと話したいのだ。結果は二の次でいい。
一緒に問題に向き合う事を大事にしたい。
それはどんなに切望しても手に入らなかった事で
私が一番欲しかった事だから。
一番求めていた方法だからこそ。
とはいえ匙加減を間違えると独り善がりの偽善にすげ変わりエゴイズムの塊になってしまう。
そうならない様に慎重に距離感を図るのはとても難しい。未だにそれは凄く難しくて怖い事だ。
だって私はプロではない。
カウンセリングや専門医に聞いた方が確実で早いのだ。
それでもやっと話してくれた苦悩を否定せず出せる情報は開示した上でカウンセリングや専門医へ相談する様に伝える事は出来るので
一定の距離感を遵守して、相手の考えるスペースには無闇に踏み込まない事を心掛けている。
私に出来る事なぞ限られていて。
情報を開示する事だけだ。
それで充分で、広げたカードのどれを取り
私の場所から離れるかは相手の自由。
それを指図していい立場なんて無い。
どれを選んで決めても私の相手に対する距離感は変わらずにある。
むしろ一緒に考えたら、その後は自分で考えて決めねば意味がないし人に言われてやってしまうと後々絶対にしこりになる事も知っているから
それをしたくない。
相手の気持を尊重したい。
既にこれはエゴなのかもしれない。
定義付けする気は無いけれどね。
役に立つなら何にでも使って欲しいと思う。
私の過去なんかが丸めて捨てる以外に使いみちがあるのなら。
とりとめもなく綴ったので散文していますが
読み辛い上長い文をここまで読んでくれて有難う。あなたに目一杯の敬意を。