鬱喰らい、文学へ
健康で文化的な最低限度の生活ができてしまうということ。朝、起きた瞬間に死にたいと泣くことがなくなる。昼、勝手に腹が空いてもりもりと弁当を食らう。夜、広がっていく思考や宇宙に、殺されず一日を終える。――そう、つまりは幸せなのだ。あまりにも満ちている人生。ひたすらに精神が荒み、朝に脅えていたあの日々の痛みをも忘れ去ってしまいそうなほどに明るい未来。生きようと思ったからこそ辿り着いたこの世界。誰しもが羨み、素晴らしいはずのこの生活。しかしそこに文学はあるのだろうか。
たとえば文豪。奴等は大抵鬱病で死んでいる。たとえどれだけ強かに生きていようとも、いずれは絶望して死ぬ。優しくても死ぬ。寿命で死ねるような人間に、高尚な文学は無いのかもしれない。絶望を煮詰めて、その果てに優しくなければ。上質な文章は書けない? 人の心は、動かせない? どれもわたしには分からない。分からないけれど、自分ひとりだけの感覚で言うなれば、そうかもしれない。大体、苦しんでいる時は暇だ。暇なときに残るものなんて、言葉以外に何もない。その言葉に、刺され、更に痛めつけられ、再起不能手前で死ぬのを待つ。その足掻いた跡が、上質な文学なのではないか。悲痛な声。そういうものこそが面白い。他人の不幸は蜜の味という言葉、あれはきっと真理。充足したひとの、幸せを綴った感性は没個性的だ。なんにも、つまらない。もちろん、使い古された幸せの追体験を、時々なにかの間違いでロマンと勘違いすることもあるだろうが。
わたしの文章は、少なくともそうだと思う。なにに絶望していたのか、もう思い出せない。思い出す間もないほどに人生が忙しない。言葉を磨く余暇がない。文学にだけ縋り、悲鳴の体裁を整えて世に放っていた十代の深夜。あの頃のオリジナリティーは、もうない。ついでに言えば、あの日あの時のわたしも、死んでしまったんだろう。どうにか死にたい気持ち、殺してしまいたいあの人への想いを美しく飾って、せめても復讐としていた麗らかな日々。もう二度と戻りたくはないけれど、あんなふうに書けたことは素晴らしかった。青くて暗くて辛い日々への懐古は、相反する二つの気持ちに揺られてばかりのようだった。
わたしには、才能がない。そう言いきれてしまう程、書き切ることもなかった。土俵に立つことすらできなかった人間の、あの頃は良かったねという昔を懐かしむ行為への羞恥心は、一体どこへ捨てれば良いのでしょう。捨て場が分からないと、未だに手元に置いてしまうということ。これ以上に惨めなことは、ないというのに。わたしはまだ、天才になりたいのかもしれない。言葉を食って生きて、逝きたいからこその執着心。絶望するその日まで、腐らせずに取っておくことくらいは、ゆるされたい。