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1-1-2 収入の手段に傾く教育の呪縛

教育が知識偏重なことは明らかだ。そうなってしまい、何千年も世界中で変わらない。知識を持つ者が権力や財力を手にすることに強い相関性があったからだ。社会や人生の目的が権力や財力の獲得でなくなったら、教育も変わるだろう。逆に言えば、どれだけ教育改革を求めても、社会の体制が権力と財力を求めているもとでは教育は変わらない。
モーツツアルほどの天才でも宮廷に媚を売らなくては生きていけなかった。モーツアルトの生涯を知らなくても、音楽で生きていくことの難しさは想像に難くない。ゴヤ、マネ、モネ、セザンヌ、世界に名を遺した画家たちも、宮廷や両親からの支援が頼りだった。
近代のオリンピアの祭典は、オリンピック・パラリンピックとなり、公式スポンサー以外は名称を使うことさえ制限される。お金を出す人のものであって、みんなのものではない。競技者はスポンサーを獲得し、メディアに露出することで評価を受ける。これがスポーツの目指すべき方向だったのか。アマチュアはプロになることを目指さなくてはならないのか。
知識は役に立ち、教養や芸術は役に立たないという考えは世界一般に支配的だ。教養や芸術はある種の技能だが、優しさや共感となるとさらに旗色は悪い。もちろん学校教育では、優しさや共感を重視する。しかし、優しさや共感で飯が食えるかとなると、教師達、親たち自身も急激に自信を失う。
米国テキサス州オースチンで毎年開かれる都市型イベントSXSW(サウスバイサウスウエスト)は毎年10万人以上の人を集める。参加費は15万円だ。他に宿泊費、交通費がかかる。このイベントの発祥は1987年だ。この年オースチンに集まったのは、米国中心に700人のインディーズバンドのプロデューサー、マネージャー、プロモーターたちだった。「くだらない音楽は金になるが魂を歌う音楽は金にならない。それじゃあー、おかしいじゃないか」という集まりだった。インディーズの集まりであって、参加するのに金がかかる。この矛盾が興味深い。
SXSWが世界で認知されてもインディーズ音楽の状況はそれほど変わってはいない。SXSW自身、商業化の方向に進みながらもインディーズの雰囲気を残している点は、未来への萌芽としてみるべきものがある。
世界中で民族芸能、古典芸能は廃れている。金を稼げないものは廃れ、金を稼げるものが栄える。これが我々の作る未来なのだろうか。なぜ、東洋の学校でヒップホップを教え、禅を教えないのか。ヒップホップには信仰がなく、禅は宗教だからか。
「知育」、「徳育」、「体育」という言葉がある。日本の教育界では人気のある価値観だ。もともとは、英国人ハーバート・スペンサーの言の翻訳とされる。スペンサーは叔父の遺産のもと自由に在野の研究活動をしていた人だ。在野であったことも影響して自由な発言、思考を行うことができた人と考えられる。スペンサーの言説は日本語に訳され、明治の元勲山形有礼との親交を通して、自由民権運動の思想的根拠に担ぎ出されたという説もある。
徳・仁・礼・信・義・知などの儒教的精神の影響を強く受けるアジア的社会観と相性がよい考えとも見ることができる。知識だけでなく、徳や体の部分にも重きを置くように説く考え方は視座として参考になる。特に体の使い方、姿勢、呼吸などが、徳を重視する思考を生み出したり、知識の吸収を効率化したりする面は、我々が忘れかけていて、実は未来のために重要な要素なのではないだろうか。

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