【仮説】なぜ黄金のレガシーは受け入れられなかったのか
※過去のFF14関係の記事はこちら※
はじめに
私には好きな漫画家さんがいる。主にSF系の漫画を中心に描いていらっしゃる作家さんで弐瓶勉さんという。弐瓶先生の作品と私との出会いはかなり昔にさかのぼり、高校時代に実家の傍の本屋でただならぬ気迫を感じるカバーの『BLAME!』の単行本を手に取ってからずっと、好きだ。大友克洋先生の『AKIRA』に次いでSF漫画においてもはや自分の中の原体験に近い。自分の性癖が作られたといっても過言ではない。
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※初期作『BLAME!』について書かれた記事
さてこの弐瓶先生の最近の作品『タワーダンジョン』に目を移すと…。一目で見てわかることは「絵が全然ちがう!」ということだ。
※『タワーダンジョン』
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もちろん作風も全然変わっていて『BLAME!』のハードボイルドかつ尖った作風をこの上なく好んでいた私からすると、近年あまりにもファンタジックで、まろやかかつ優しい弐瓶先生の変化を受け入れられないと思っていた時期もあった(ガンダムでいうと白富野的な)。特に『シドニアの騎士』は単行本発売時にはあまり追いかける気になれず、少し前に劇場版を見て改めて好きになった次第だ。
作風の変化
長期間作家活動をされている漫画家さんにとってこの「作風の変化」はどうしても避けがたいことだけれども、今回FF14の黄金のレガシーをプレイして思ったのは、FF14においても同じ変化が起こってしまったのでは?という仮説だった。それもかなり大きく。
FF14は2013年リリースで、本年は2024年。リリースからもう10年以上過ぎており、最古参のプレイヤーは足掛け10年以上もこのゲームをプレイしている。ゲームも一種の作品だとすると、作風の変化を10年以上ずーっと追いかけてきたわけだ。
10年前にはじめてこのゲームをプレイしたプレイヤーからすれば、そこには原体験があり、同時に他のものでは代替できないインパクトがあり「ずっとこの作風でいてほしい」と思う気持ちがあったのではないか。特定の年代にある作品の強烈なファンになってしまった人間にとって、それは当たり前な気がする。同時に作家側としては古参のファンも大切にしつつ新しいファンの取り込みや、時代性についていく必要もあるわけで、そこをどうバランスを取っていくかは作家と漫画編集者との協議によって決まっていく側面もあるのだろう。MMORPGであればどうだろうか。運営側が何をしていきたいか、にもよるがプレイヤーとの関係性がかなりの比重を占めるであろうことは容易に想像できる。
プレイヤーの変化
新しいプレイヤーからすると、当然過去のことはわからず、知っているのは当然「今」だけになる。リアタイで過去を知っているわけではないので、比較対象がなく視点としてこのゲームは今、何を楽しめるのだろう?今後何をやりたいのだろう?という視点になる。もちろんコンテンツの蓄積という意味でFF14には膨大な過去の遺産(まさにレガシー)があるので、リアタイ時の楽しさを味わうのは難しいが、フレンドに声をかけたり、野良で募集をかける手間を厭わなければ過去のコンテンツも十分に楽しむことはできる。
約2年前にこのゲームのプレイヤーとなった私も、3年目にしてまだ知らないコンテンツがあったりするため、やることがたくさんある(今自分が知らないものも含めて)というのは素晴らしい遺産だと思う。やることが全然ないよりは自分が未だ知らないことも含めやることがある、というほうがゲームというコンテンツとしては健全だ。
FF14は新参プレイヤーにも優しいとされるぐらい復帰が容易とされているが、それは運営側が常に決まったクオリティでパッチをリリースし続けているからで、ある程度年数の経った古参のプレイヤーからすると、新パッチでやること(できること)、新ジョブ、新クエストはもう当たり前のルーチンワークの一つにしか過ぎない。加えて前のパッチとの比較も発生する。新規にはそれがないので、楽しみ方に温度差がある。定型であることは新規、復帰者からすれば適応が楽な反面、新たな楽しさは少ない。ここにやや溝がある。
運営側の変化
今回運営としては古参プレイヤーと新規プレイヤー、どちらを主眼にアプローチをしたかったのだろうか。ここがブレてしまったように見えるのが、ゴタゴタの原因だったのではと考えた。
この10年間FF14のメジャー化と同時に吉田P自身に役職の変化があり(いわゆる昇進)、10年前はプレイヤーと同じような視点でコンテンツを創ってきた運営者が今はもう一種の国家元首であり経営者となってしまっているので、そういった運営側の変化と温度差も原因で古参のプレイヤーは離れてしまったのではないだろうか。
暁月までと黄金でストーリーが全然違うというのも運営側としては新しい動きを求める、つまり新たなプレイヤー層へのアプローチを行いたかったからのような気がする。良くも悪くも古き良き重厚なハイ・ファンタジーだったFF14に新たな少年(青年)漫画かつSF要素を濃厚に入れ込むのはかなりの冒険だろう。が、古参のプレイヤーの一部はその作風の変化こそが受け入れられなかったのではないか。
常に決まったクオリティで作品をリリースすることは素晴らしく統制の取れたプロジェクトでないと難しい。今回暁月でハイデリン編が終わり、一旦の区切りを迎えてしまったタイミングで仕切りなおすにはどのような物語が必要とされるか、という難しい局面も重なり運営は常に一定のクオリティを担保してきたはずなのに、我々を満足させてきたはずなのにどうして、という気持ちがあったのは想像に難くない。
MMOの難しいところ
難しいのが、漫画なら単純に読むのを止めればいいがMMOの場合はその人の居場所とからんでいるだけに中々ややこしいことになる。特にFF14はストーリーを売りにしているゲームの為、まずストーリーをクリアしないことには、人と共通の話題ができずコンテンツを楽しむことができない。
ストーリーが楽しめないのであれば料理で言うメインディッシュがまずかったことと同じで「どうして私はこのゲームをやっているんだ?」という気分になっても仕方がないだろう。周囲と自分の意向が合うならまだしも、自分一人だけがそう考えているのでは…と感じてしまうとどうしても孤独感がつのる。加えてキャラグラフィックの変化もあった。これだけの変化があったのに、納得がいかなくても課金してゲームをプレイし続けろというのもおかしい。
正直にこれらの事象が面白くない、とロードストーン(※FF14のプレイヤーズサイト)やXに投稿すると素直にゲームを楽しんでいる他のプレイヤーの目につくため、いったい何を言われるかわからない。だから結果的にnoteがその受け皿になってしまった。ほかの方の日記を読んで思ったが、こういったガス抜きの場がゲーム内に見当たらないのは中々に苦しいことだと思う。noteで引退表明をするプレイヤーもたくさん見かけたが、言語化できる人は自分の気持ちをまだ文字にする能力と余力があり、カタルシスを得られたかもしれないが中には何も言わずにいなくなってしまった人もいたかもしれない。せっかくFF14を楽しんでいたはずなのに、運営の都合で(特にグラフィックは強制なので)だれとも想いを共有できずひっそりと消えていくのはとてもかわいそうだ。
FF14自体がメジャーとなり、運営とプレイヤーの力関係も変化し、古参のプレイヤーと新規プレイヤーが共存して様々な人種の入り乱れる場所になってきているからこそ、プレイヤー間の齟齬を埋めるコミュニティや何かしらの施策は必要な気がする。そこに自分が望むコミュニティなり快がないとわかっているのに、わざわざお金を出してまでそのゲームを続ける人はいない。
今後自分としては何を望むのか
自分は今ちょうど古参と新規プレイヤーの間にいるので、新規プレイヤーさんを受け入れる手助けはしつつ古参のプレイヤーさんから学べることは何でも学んでみたいと思っている。昔話を聞くのは結構好きだし、新規プレイヤーさんの慣れない動きも可愛くて、つい世話を焼いてしまいたくなる。普段消化しているルレや納品、時々やるジョブクエのルーチンワークにも慣れ切っていて、普段は平和という単語しか思いつかないぐらい平和な日常だけど、このゲームはそこがいいんだよな、と思う。
またFF14をやっていると、バトルの緻密さと協力の性質がまるで仕事みたいなゲームだな、ともよく考えるのだけれど、実際の仕事でも3年目ぐらいはちょうどモチベーションの壁にぶち当たるのと同じで、今後は自分のことに注力するよりもFF14のコミュニティがよくなるように、少しでもお手伝いをしていきたいと考えている。
来たばかりの新人若葉さんにはかつてこの世界に降り立った自分を重ね、先輩には最大級のリスペクトを。MMOはユーザー一人一人が作っていくゲームだから、私は目の前の人を大切にしたいと思う。それが結果的にこの世界の存続につながるだろうから。
私はこの世界が大好きだから、これからも運営さんとプレイヤー、プレイヤー同士、それぞれがお互いを大切にし合う文化が続いてほしいと心からそう願っている。
なんだか仮説らしい仮説にならなかった気がするけど、今日はここまで。