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あるがままな生き方を手にしたいなら「捨てる」と良いもの
「自然」というのは「自ずから然る」べくしか、存在しない。
みずから、起こるようにしか起こらず、ヒトの手など何か力が加わっても、なるようにしかならなず、あるようにして、そうあるだけ。
それが「自然」というもの。
人間の一生という出来事も、自然界の現象の一部。
ただ、起きてゆき、そして朽ちてゆく。
それは雲のように。川のように。
なのですから、本来は、人間も、「なるようにしかならず、あるようにしてある」、つまり「あるがまま」な存在なハズ。
ですが、ヒトは自ら手にした「想像」の力があるので、
「(自分は)こうしたい」「(自分は)こうあるべき」という「自分の見立て」を持って生きるもの。
それは生きる希望として、困難にも立ち向かうエネルギーにもなる大切なもの。
とはいえ、どこまでいっても、ヒトは自然界の一部として「なるようにしかならない」もの。
なので、一個人の「自分」がどれだけ望もうと、ときに「思う通りにならない」ことは起こり得る。
それが「苦しみ」を感じさせるものとなる。
考えてみると、自身を悩ませるものというのは、全て「自分の〜」に関わるものではないでしょうか。
自分の健康、自分の資産、自分の将来、自分の評判、自分の国の未来(が与える自分の安定)、自分のポジション、自分の子ども(による自分の評判)、自分の尊厳…。
誰もが「自分がいとしいもの」とブッダは語ってますが、一方で、そうした「我(自分)」という概念に縛られるなとも説いてます。
繰り返しですが、自分という存在も自然の一部である以上、「なるようにしかならない」もの。
なので「自分が〜」という見立てをもつほどに「(自分の)思う通りにいかない」苦しい出来事に出会いやすくなる。
それは「あるがまま」な生き方とはなりにくい、自然に抗う生き方とも言える。
ならば「あるがまま」に生きるには、どうしたら?
「自分」など捨て去れということなのでしょうか?
仏教では「無我」という言葉がでてきますが、「我は無い」なんて成り立つのでしょうか?
僕は、ブッダが説いた「無我」は、「自分など無い」という意味ではなく、「自分」という確たる変わらぬ存在など無いという意味として解釈しています。
"単語(ことば)"としての「自分」という一つの固まった"なまえ"をアタマに浮かべると、その単語は、「自分といういつでも変わらぬ確固たる存在」のようなイメージを脳内に膨らませる。
それは、実態としての"じぶん"ではなく、"ことば"という概念としての"自分"を相手にしている。
でも、実際のヒトは、刻一刻、その肉体の中身も(免疫や感情に影響を及ぼす腸内の細菌も)、感情も、思考も変化し続けている。
「自分」という単語は、100年経っても、ただ「自分」という概念を示す記号のままかもしれず、ゆえに脳内に浮かぶ概念としての「自分」のイメージも、一つの変わらぬ姿に感じさせる。
でも、実態としての「じぶん」の存在は常に変化している。
タイムラプスで観れば"じぶん"の変化は自覚できるけれど、変化がスローなので、「変わらぬ自分」があるように錯覚させてしまう。
その「言葉がもたらす、変わらぬ自分という概念」と実態の「変化しつづける"じぶん"」のギャップが、我々に「思う通りでない」と苦しませる。
そこから解放されたいなら、「概念への囚われ」を捨てればよい。
捨てるといって、なにか物理的なモノを捨てるのではなく、一つの概念に囚われることなく、違う「見立て」を手にできるようになればよい。
それが、我への囚われを捨てる、「無我」の考え。
個人的には、「無我」は、「非我」と呼ぶ方がしっくりくるのではと感じてます。
「我など無い」のではなく、「我は"我"という名前がもたらす確たる概念には非ず」といった感じなので。
"名前"をふくめた「ことば」という存在が、いかにヒトの偏見を生み出すかというお話は、下記のブログでも触れております。
「我」という、確たる変わらぬ自分たるものを、脳内に固定された(囚われた)概念こそ、捨て去ると、「自ずから然り」な生き様、つまり「あるがまま」な生き方を手にしやすいのだと思います。
ただ起こり、ただ朽ちる。
それは、なんだか無意味に聞こえて、怖いものでしょうか。
もしかしたら、草木も犬猫も、そんなことこれっぽっちもイメージしたことすらなく、ただ、そこにいて生きているだけかもしれない。
人間だけが、想像力を働かせて「死んでしまったら…?私…無くなるの…?」というイメージを掻き立てるがゆえに、「思う通りにならない」苦しさを自ら生んでいるだけかもしれません。
大丈夫ですよ。
「我など無い」のではなく、はなから、我々は無かったところから生まれたのですから。始めから無かったも同然なのですから。
ただ、起こりつづけ、変化を続け、朽ち続けてゆく。
「朽ちる」といっても、今この瞬間も、様々な細胞たちは朽ち"続けて"いる。
ヒトの名付ける「死」というモノだって、個々の細胞たちからみたら、「朽ちている最中」でもあり、個々の分子からみたら「起きている最中」のモノだってあるだろう。
始めから無かったものでもあり、今も起きているものでもあり、今も無くなっている最中でもあると、言える。そんな状態なのですから。
それが「あるがまま」という感じでしょうか。
自分が香山リカさんと対談させて頂いた内容の本「捨てる生き方」も、お金や肩書を「捨てる」ことばかりに注目をされがちですが、最も大切なことは、我々が囚われがちな、さまざまな概念こそを「捨てる」べきものでは、としてお話させて頂きました。
自身を縛る概念を「捨てる」のは、別に「得度(出家)」といったプロセスなど関係なく、日常生活でもできることではと考えてます。
これを読んで、もし今、脳に「とはいっても…」「でも自分は…」と浮かんだとしたら、それらこそが、自分を縛る概念かもしれません。
よりモヤモヤと脳内に漂い続けるモノこそ、思い切って、少し手放してみてもよいかもしれません。
それが、「自ずから然る」べくある姿、あるがままの姿なのかもしれないのですから。
大丈夫ですよ!なるようになりますから!
たぶん!!
今日もお付き合い頂き、有難うございました。
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