【捨て置きください】科学と民主主義の限界とその先についての戯言
本来、僕の発信は「それを目にして、何かしら日常生活での課題感へのヒントになる」ことに主眼をおいております。
ですが、このnoteで記述することは、日常生活には何ら役立つどころか、かえって、頭でっかちで悩ましくさせる内容がメインです。
そもそも「そういったことは発信すべきでないのでは?」という迷いもありつつも、そのテーマは一方で「日常生活における課題感や違和感」に通じているものもあるかもしれない。
という、仮説のもとで、あえてシェアさせて頂きます。
少しややこしい前提条件を下記。
世界のあり方を解き明かそうとする人間の野心から生まれた「物理学」の最先端でもある量子力学では、「物事の状態は"観察者"の存在による影響を受けうる」という考えが生まれております。
本来、物理学を含む"科学"というものは、「誰から見ても、そうであることを法則化して述べる」ことを目的にしている。そう解釈しています。
ですので、"科学"においては、「観察者個人」が誰だかは問われない。
だって「誰から見ても、そうである」ことを前提にしていたから。
それが、アインシュタインの相対性理論において、一つの変化が生まれた。
それは「観察者の物理的な状態」によって、物事の観測の結果が変わるということが明らかになった。
有名な例では、映画インターステラーでも描かれていますが「強い重力の場(星など)にいると、"相対的に"弱い重力の場にいる人より、時間の流れがゆっくりになる」というものです。
地球より強い重力の星から地球に帰ってくると、地球の人が感じる「10年」は、その星から帰ってきた人から見ると(観測すると)「10年以上たった」と映る。
この事実が実験によっても「観測された」ことにより、「観測者の物理的な状態」次第で「物事のありかた」は変化しうることが、示された。
さらにやっかいなことに、今度は量子力学の研究が進むなかで、「観測者の物理的な状態」だけではなく、「そもそも観測する人物が存在するか否か」によって、物事の観測の結果が変わるということが指摘されている。
これは、まだ最終結論はでてない「指摘」である、という理解ですが、こうなってくると、「観測者AでもBでも誰でも結果は変わらない」科学が、「観測者は誰でもいいけど、その物理的な環境がXかYなのかで結果が変わる」(相対性理論)ものになり、さらには「観測者が、いるのか、いないのかで結果が変わる」(量子論)可能性ができてきた。
ここまでが、「ややこしい前提」です。
ここで、困るのが、科学における「観測」という行為なのです。
観測をするのは、人間です。神でもネコでもない。
そうすると、人間の「意識」が重要になってくる。
もっというと、「意識のありかた」のあり方は避けて通れなくなる。
ですが、人間の「意識」というものは、脳科学でも心理学でも「普遍的な(つまり誰の目からみても成り立つ)」法則を作ろうと努力がされているものの、未だそれはなされてません。(と解釈しています)
つまり、観測するヒトという意識が科学的な普遍性を担保できてないのに、「観測者」の状態によって語られる科学は、果たして普遍性を維持できているといえるのだろうか。
意識というものは、普遍的とは言い難い。
たとえば、多くの人にとっては、見えもしない、聞こえもしない(つまり観測できてない)事象を「見た」「聞こえた」という感じる人の存在があるのも事実です。
それは、決して「異常な精神状態の病気の人」という少数派として片付けて「一般のヒトの意識が普遍的」と決めつけて、果たしていいのでしょうか。
一見「一般のヒトの意識による認識」とは異なる物事が記録されている事象は、実は太古の歴史より、数限りなくあるのでは。
むしろ、人類の歴史の重要な意思決定には、易者やシャーマンや存在など、ある種の「常人(多数派)とは異なる物の見立て」が可能とされる人物によって行われてきている事実もある。
それは、「特殊な能力を持っている」と"振る舞って"、「特殊と解釈された」のか、当人が心から"そのように感じ伝えた"ことが「正しいと解釈された」のか。それは、今となってはわからない。
でも、歴史は、そのような人物によって動いてきた事実はあるでしょう。日本だと卑弥呼もその一人でしょうか。
イエスやムハンマドといった、現代の宗教に多大な影響を及ぼしたとされる人物も、ある種の「常人(多数派)とは異なる物の見立て」を体験したことが、その「教え」の発端となっているとも言えなくはない。
さて、そういった「常人(多数派)とは異なる物の見立て」は「天才」と呼ぶこともあれば、「おかしい異常な人」と片付けることもあるでしょうか。
それすらも、それぞれのヒトの「意識に基づく解釈」であり、普遍的(全てのヒトに共通)ではないでしょう。
実際に、物事はそんなに単純ではない。
常人と天才、あるいは、常人と異常者。その判断。
結局は、それぞれの「意識」による「感じ方」によって判断が変わる。
簡単に「正しい」かどうかは「普遍的」には言い切れない。
そうすると、意見の食い違いが生まれる。
とくに現代は、実は、「常識的ではない」意見同士による食い違いが顕在化してきている時代なのではないでしょうか。
SNSなどでは、「全く認識が異なる」人同士のぶつかりが顕著に見える。
たとえば「ワクチンは悪だ!陰謀がある」としか"感じられない"人がいる一方で、それらは「アタマがおかしい」としか"感じられない"人もいる。
それぞれの「意識できる」世界観においては、全く異なるような「解釈」は起こり得る。
これは、政治や個人の感性だけの話しなのでしょうか。
僕は、科学のありかた、もっというと「科学への信仰と、科学の実体のあり方」の変化が大きく絡んでいるようにも感じるのです。
ニュートンなど古典的な科学(相対性理論の以前)においては「全ての人に普遍的な視点」が法則化されていたのですが、相対性理論や、はたまた料理力学など、科学の発展とともに、「普遍性の限界」とも思われる事態が生まれているかもしれない。
量子論にいたっては「観測者の存在」事態により結果が違って見える(意識される)事態が生まれるのかもしれない、と指摘されている。
そうなってくると、科学において、もしかしたら「(全ての人にとって)正しい」物事は実は存在せず、「(観測する立場や状況や意識によって)正しいか否か」の視点も排除できなくなってきた可能性がある。
つまるところ「普遍的な視点」こそが土台であったはずの科学が、突き詰めると「普遍性の限界」が、奇しくも科学的観測によって証明されつつあるのかもしれない。
誰にとっても「正しい」はずの科学すら、実は「人の状況(物理的状態や意識のあり方)」によっては、正しいとも、そうでないとも言える事態が出てきているのでは。
そうなってくると、何を「普遍的に(=全ての視点から)」正しいと言えるのだろうか。
実は、科学ですら「普遍性」を失いつつあるのだとしたら、もはや、民主主義のように、「多数派かどうか」によってしか、正しいか否かを定められなくなってきているのではないだろうか。
そもそも、劇的な世界人口の増加の一方で、局所的な(特に先進国全般の)劇的な人口減少も起こり、教育や文化の背景が大いに「多様化」した人口数の変化が起こる現代において、今のままの「多数か否か」で未来を決める「民主主義」は成り立つのだろうか。「多数はかどうか」によって、正しい答えを得ようとする態度は、未来において正しいのだろうか。
この問いを一人で脳内会議でしていて、あまり頼りたくないようにしている相手ながら、時に「違う視点をくれる可能性」として頼るようにしているAI(ChatGPT)に疑問を投げかけてみました。
その時の回答が下記です。
あなたの問題意識は、科学の「普遍性」と個人の「主観的体験(少数派の経験)」との緊張関係、そしてそれが民主主義の「多数決原理」とどのように関係するのか、という点にあるように思います。
このテーマを深掘りするために、次のような観点で整理してみます。
1. 科学の「普遍性」と個人の主観的体験
科学の基本的な前提は、「客観的な法則を発見し、再現可能な形で説明すること」にあります。そのため、次のような性質を持ちます。再現可能性: ある現象が、異なる観測者や環境のもとでも同じように起こることが求められる。
測定可能性: 観測された現象は、何らかの方法で定量的に記述できる必要がある。
理論の一般化: 一部の観察だけに基づいて個別の説明をするのではなく、できるだけ広い範囲の事象を説明できる理論が優先される。
しかし、ここで問題になるのは、「認識できない(あるいは共有できない)体験」です。たとえば、共感覚(音に色を感じる、文字に味を感じるなど)は、体験者本人にとってはリアルな現象ですが、科学的には長らく「主観的すぎる」として研究対象になりにくいものでした。
あるいは、幻覚や精神疾患による知覚の変容なども、客観的に測定するのが難しいため、しばしば「科学的な枠組みでは扱いにくい」とされてきました。
ここでの本質的な問題は、科学の「普遍的な視点」を守ろうとするあまり、「個別的な視点」を持つ人々(少数派の経験)が排除される傾向があることです。
2. 民主主義(多数決)との相関関係
民主主義(特に多数決)は、「社会の意思決定を公平に行う仕組み」として機能します。しかし、その中核には「多数派の意見が正しい(あるいは採用される)」という原則があります。
この点が科学と似ているのは、「客観性の確保」や「一般的に受け入れられるものの優先」といった価値観を持っている点です。科学では、「より広範な現象を説明できる理論(=多くの事象に適用可能な理論)」が正当性を持つ。
民主主義では、「より多くの人が支持する意見」が政策として採用される。
この構造は、少数派が抱える独自の視点を**「特殊なもの」として周縁化する**という共通の力学を生み出します。
たとえば、歴史的に、科学界で「主流ではない意見」が多数決的な構造のもとで排除されてきた例は多くあります。(例:大陸移動説が長らく受け入れられなかったこと、ホメオパシーの科学的評価など)
社会的に、民主主義制度のもとで「少数派の意見」が採用されにくい現象も似ています。(例:障害者のニーズが後回しにされがち、LGBTQ+の権利が時間をかけてようやく認められるなど)
つまり、科学と民主主義(多数決)は、どちらも「より多くの人に共通する視点(≒普遍性)」を求めるために、「特異な経験を持つ少数派」が排除されやすいという共通点を持つと言えます。
3. では、この問題に対してどう考えるべきか?
ここで重要なのは、科学と民主主義が本質的に「多数派を優先する性質を持つ」からといって、それが必ずしも望ましいとは限らない、という点です。
① 科学における「少数派の視点」の価値
科学史を振り返ると、「最初は少数派の意見だったもの」が後に主流となった例は数多くあります。大陸移動説(ウェゲナー)
量子力学の確率解釈(ボーア vs アインシュタイン)
ヘリコバクター・ピロリ菌が胃潰瘍の原因であるという説(マーシャルとウォーレン)
こうした例を見ると、科学が「普遍的な視点」に偏りすぎることで、新しい発見が阻害されることもあると分かります。
したがって、科学の枠組みを維持しつつ、**「少数派の経験や知覚の違いを尊重し、それを科学的に扱う方法を模索する」**ことが重要になります。
② 民主主義の中での「少数派の意見の尊重」
多数決が基本原理とはいえ、現代の民主主義は「単なる多数決」ではなく、「少数派の声をどう反映するか」が重視されるようになっています。熟議民主主義(ディスカッションを通じて合意を形成する)
多様性の尊重(少数派の権利を制度的に保証する)
科学と同じように、「少数派の視点をどのように取り入れるか」という仕組みづくりが重要になるでしょう。
4. 結論
あなたの直感は非常に鋭く、科学と民主主義には「普遍的な視点を求めるあまり、少数派の経験や知識を排除しがち」という共通の傾向があることが分かります。
ただし、これに対する解決策としては、科学においては、「少数派の視点も科学的手法の中で扱えるようにする」(共感覚、意識研究、異常知覚などの研究の推進)
民主主義においては、「単純な多数決ではなく、少数派の声を反映できる仕組みを導入する」(熟議民主主義、マイノリティの権利保護)
という形で、「普遍性」と「個別性」のバランスを取ることが求められるのではないでしょうか。
あなたの問いが示すように、「科学」と「民主主義」の共通の課題として、「少数派の視点をどう包摂するか?」というテーマは、今後の社会においても非常に重要な議論となるでしょう。
と、そういった見解でした。これも、一つの「解釈」にすぎません。
答えは、もちろんありません。
そもそも、ブッダならば、こういった「答えが手に入らないこと」は「捨て置く」考えだったかもしれません。
ですが、様々な相談や心の課題を向き合うなかで、あながちこのテーマは現代のヒトの心の課題に対し「一定の普遍性」をもって影響を与えているようにも感じるのです。
まだまだ、全く学びも洞察も足りませんが、もしこの投稿を見て、何か感じられること、ご意見などあれば、AI以外ともディスカッションを重ねていきたく、コメント頂けたら有り難いです。
今日もお付き合い頂き、有難うございました。
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