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目に映る社会の課題は、実は自分の内なる課題かもしれない
周りの誰かや、政治のあり方について「ダメじゃないか!」と声をあげる人がいる。
社会を「ダメではない」状態に変えていくには、「ダメ」と感じる課題を指摘して改善を促すことは大切だと思います。
でも、それとは別に、果たして、その「ダメだ」という指摘をする"本人のあり方"は、当人自身からみて「ダメではない」状態と言えるのだろうか。
心理学では、自身の内なる(時にハッキリとは自覚できてない)不満や課題感への怒りを、自身の外の誰かや何か(会社や政治など)にぶつけて解消しようとする行為を「投射」と呼ぶそうです。
たとえば、「ちゃんとしなさい」と親に言われ続けて育った人が、その時の不満をこころの内に抱えながら成長し、その時代の不満や、現状の自分が「ちゃんとできてない」ことに対するいらだちを、つい、自分の親や会社の上司や、はたまた自分の国の政治家に「ちゃんとしろよ!」と声をあげることでぶっつける。
それにより、自分の周りや社会の課題が解決され(るように見え)たとしても、自分の過去にまつわる不満が解決するわけではない。
いくら外に不満をぶつけて、一時的にはスッキリできたと感じられたとしても、内なる不満のマグマは溜まり続ける。
根本解決はできてないので、かえって不満は溜まっていくかもしれない。
これは、よくある現象なのではと思うのです。
もしかしたら、外に対して感じている何かしらの不満は、自分の内なる課題感に対する不満の表れでもあるかもしれない。
社会の課題に対して声をあげて改善していこうとする行為自体は、決して悪いものではないのだが、それで社会が改善しても、自分の「こころのおだやかさ」には繋がらないかもしれない。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
ブッダ曰く、自身のこころのあり方によって、ものごとのあり方(感じられ方)が変わる。
自身のこころに汚れがあれば、清らかなものも汚れて見えたり、逆に汚れたものが清らかに(錯覚して)感じられたり。
このブッダの教えは、「社会が汚れていると感じる」ときに、事実社会に課題があり汚れていたとしても、そう見て感じる当人自身のこころに「汚れ」がある可能性を、厳しく指摘しているように感じております。
大切なことなので繰り返しですが、社会に課題を感じたり、その改善を促すべく声を上げる人が、イコール、その当人のこころが汚れているのでは、ということを言いたいのではありません。
とはいえ、自身に課題があるとして、その課題に自ら向き合おうとせずして、自分も属する社会は自身の社会の課題への「向き合い」は"その当人の目線でも"起こるのだろうか、と感じるのです。
そして、これは、このテーマについて指摘の声を上げている、僕自身にも当てはまることです。自分に対する内なる課題感があるからこそ、このテーマに対する課題意識も生まれているのだと感じています。
社会に課題を感じる人は、えてして、向上心が高かったり、理想が高いがゆえに、自分自身の現状に対してもダメ出しするこころを抱えていたり、社会に対しての課題の感じ方も強くなりがちなのかもしれません。
もしそうならば、そうした人こそ、社会に対しても、より善き姿にしていけるだけのエネルギーを秘めているとも言えるのでは。
そして、仮に内なる自身に課題が秘められているとしたら、当人をより高い理想へと近づけられる力を秘めているのかもしれません。
社会の課題が目に付くならば、まずは、その社会の一員である自分こそにも目を向けてみる。
自身が清らかにあろうとすることこそ、社会を清らかにする一歩になるかもしれないのだから。
なぜなら、「社会」には自分も含まれる。自分という存在を切り離して社会はなりたたないのだから。
仮に多くの人が「社会」が良くなった感じても、「自分にとって良いと実感できる」社会でなければ、その当人にとっては、引き続き「ダメな」社会なのだから。
自身の家庭や、会社や、社会、国に対して何かしら課題を感じる時。不満があるとき。
自身が目についた有名人や誰かに対して、文句を言いたく感じるとき。
それは、まず自身のこころに内なる課題があり、それを「ちゃんとしろよ!」と言いたい自分があることを示す信号なのかもしれない。
自身の周りの課題が解決したとしても、自分自身がこころおだやかに感じられるかは、別問題である。
自身の内なる課題の解決は、その当人次第でしかない。
そして、社会は個人の集まりである以上は、自身という個人の課題の解決を棚上げしていては、社会の課題は解決しきらないかもしれない。
自身の外への不満を感じるときほど、深呼吸して、鏡を見て
「まず、自分のこころを乱す、内なる自分を点検してみよう」と
自身の内側を覗き込んでみてもよいかもしれません。
それが、個人のこころの清らかさにつながり、社会の課題解決にも貢献しやすくなるかもしれません。
そんな、戯言でした。
まずは、自身の精進を続けてまいります。
今日もお付き合い頂き、有難うございました。
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