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ブッダの説く「苦しみに苛まれない"正しい生き方"」
年始は初心にかえるべく、ブッダのオリジナルの教えである「原始仏教」に関する本を読み直します。
いろいろ生きづらさを感じさせる世の中かもしれませんが、
ブッダ先生の教えである「原始仏教」は、とても実践的で効果がある生き方を示してくれた「処方箋」のようなもの。
万人に効くかは分かりませんが、個人的には、そう実感しております。
このブログでは、ブッダが遺してくれた、「生きづらさや苦しさ」に苛まれにくい「正しい生き方」について、コンパクトにまとめてみたものです。
とはいえ、2500年も続くとされる「仏教」を、それまで宗教全般に懐疑的だった人間が、たまたま仏門をくぐりハゲアタマになり、たった2年ちょい触ったレベルでの薄っぺらな解釈がベースですので、ご容赦くださいませ🙏。
なぜ「ブッダの教え」なのか
仏教は生身の人間から生まれた"智慧"
世界でメジャーな宗教であるキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教にも、素晴らしい教えがあると感じる一方で、個人的に仏教にシンパシーを感じるのは、「80歳まで悩みつつ生き方を模索した生身の人間の『苦しまず生きるため』の智慧」だからです。
世界の創造をつかさどる神といった、見えない触れない尊い存在から降ってきた教えではなく、我々と同じ、普通に生きて死んだ一人の人間が苦労して見つけた「智慧」がまとめられたものが「仏教」。
その内容は超自然的なものではなく、とても現実的でロジカルな視点に富む。
だから、個人的にはシンパシーを感じています。
「仏教」は実に複雑に見えがちですが…
一方で、一言に「仏教」といっても、2500年の間、様々な国で多様化を重ね、様々な見え方の「仏教」があります。
インドとタイとミャンマーでも同じ「お経」を読んでいても、読み方など微妙に違いはありますし、チベットやネパールではユニークな表現での「仏教」があります。
日本でも、「宗派」によって読む「お教」も違えば、静かに坐禅をすることを重視する「仏教」もあれば、ひたすら念仏や御経を唱える「仏教」があるなど、見え方は様々です。
特に日本の仏教は、もともとインドで生まれた教えが1000年たってから、中国を経て、翻訳や編纂を重ねて、日本の各時代背景ごとに解釈が重なり、多様化を重ねていっているため、ひとつの国内の「仏教」でも、実に多様化が進んでいいます。
それもそのはず、貴族中心に広がった平安時代の仏教と、戦乱の世に民衆に広がった鎌倉時代の仏教では、頼りにされる「教え」の在り方も変化して当然かもしれません。
じゃあ、そんな多様化された仏教に、どこから手を付ければよいのでしょうか。
ブッダのオリジナルの教えはシンプルかつ実践的
そんな仏教のあまたある教えの中で仏教を学ぶ際、自分が皆様にオススメさせて頂いているのが、中村元先生の「原始仏典」です。
「原始」と聞くと、なんだか古臭いものに聞こえるかもしれませんが、ブッダ*のオリジナルの教え、といった意味合いです。
時代を重ね、後世の仏弟子により様々な表現へと多様化した「仏教」ですが、それら全ての「仏教」の土台となるのが、ブッダのオリジナルの教えとされる「原始仏教」です。
ブッダ本人が語った教えに一番近いとされる教えが中心となります。
この「原始仏典」という本は、当時のインドの時代背景や、その教えにフォーカスをあてており、かつ、わかりやすい解説も多く、大変有り難い書と感じています。
自分がなぜ様々な表現の「仏教」のなかでも「原始仏教」をオススメさせて頂くかというと、それは、全ての仏教の土台であるからと同時に、とても直接的で伝わりやすく、日常でも実践的なものだからです。
このブログでは、そのブッダオリジナルの教えである「原始仏教」に特化しています。
その教えの内容は、日本で慣れ親しんだ「知ってる仏教」からみると「あっさりシンプル」に映るかもしれません。
後世で多様化し研究が進む中で生まれた、仏教専門の用語(諸行無常など)も少なめです。
ですが、だからこそわかりやすいと考えています。
そして、それは現代の日本の仏教の土台でもある。
そんな感覚でご覧頂くとよいかもしれません。
では、さっそく参りましょう🙏。
…と、その前にまずは、その思想がうまれた背景から。
その時代背景を知ることは、そこで生まれた思想を理解する一助になると考えていますので、少し寄り道をお許しくださいませ🙏。
仏教が生まれた時代背景
交流がもたらす"摩擦と混乱"と道徳の退廃
今から2500年ほど前の当時のインドでは、多様な人種や文化の混ざり合いが起き、異なる文化や価値観がぶつかる中で、小さな国どうしが争い合っていた。
また、貨幣が浸透しはじめたタイイングでもあり、ヒト・モノ・カネの交流も進み、それにより富の偏在がおこったり、物質的な享楽にふけり道徳的な価値観の退廃が起きていた。
そんな争いや多様な価値観がうずまく中で、既存の価値観や思想がくつがえされ、思想の混乱ともいえる状況がおきていっていた。
たとえば「人を刀で斬っても、それは人を構成する元素と元素の間に刀が通っただけだから問題無い」だとか、「我々の宿命は決まっているのだから努力なんてしなくてもよく、今を享楽的に生きれば良い」などといった、倫理観にもとる異なる価値観の思想が広がっていた。
そんななかで、何を信じて生きればよいかが見えにく、「信じられるものなんて無いから考えるのなんてやめてしまえ」といった思想まで広がる、思想の混乱した時代であった。
現代との共通点?
蛇足ですが、この状況は、もしかしたら現代にも似通っているかもしれません。
インターネットの普及とともに、貨幣経済が24時間世界で動き続け、その流通が劇的に加速するなかでカネがカネを求めて膨張する圧が独り歩きし、富の格差の拡大が広がり、自然破壊も止めたくても経済膨張の圧のなか止められなくなり、一方で、ネットでグローバルの接続が進む中、SNSなどで多様な人種や文化の異なる主張の触れ合いとぶつかり合いが進み、何がホントだか見えにくくなるなかで陰謀論や「フェイクニュース」のような「ほんまかいな」といった考えに支持が集まったり、物質的/体験的な享楽を重んじ道徳的な価値観の退廃が起きつつあったり…。
なんだか被る部分が大いにあるように感じると、勝手ながら感じております。
だからこそ、自分が現代において「原始仏教」= ブッダオリジナルの教えを重要視する理由でもあります。
既存の社会構造や思想への"アンチテーゼ"として生まれた仏教
さて、2500年前に戻って…。
そんな道徳の退廃や思想の混乱を乗り越え、それまでの既得権益や既成概念、形式にとらわれず、あくまで日常の実践的な中で「苦しみ」に苛まれずに生きる考え方、生き方として、ブッダの思想が生まれていった。
それは、彼がいわば既得権益側とも言える王族の子どもとして何一つ不自由なく生活できる立場にありながら、そこに疑問を感じたからこそ、「このままでいいのだろうか」という、現状の社会構造や思想への打破から生まれた、いわば「アンチテーゼ」としての思想であった。
それが、後に弟子たちにまとめられ「原始仏教」として紡がれることになった、オリジナルのブッダの考え。
ブッダの教えは、当時としては、かなり新しく、それまでの「常識」を塗り替える驚きのある内容だったのだと考えております。
では、その彼が考え、説いたことを見ていきましょう。
(浅はかな自分なりの解釈であることをご容赦くださいませ🙏)
ブッダの説いた教え
彼のの思想の土台は、一見「当たり前」にも感じるシンプルな物が多いです。それらを順に並べていきます。
あらゆるものは変化しつづける
自然界では、あらゆる物事に永久不変なものなどなく、常に変化する。
それが、あるがままの自然なすがたである。
雲の形も水の流れも、常に変化し続けている。一人の人間だって、その肉体も老いや死に向かって変化し続けている。様々な人々からなる社会の価値観や在り方だって、変化していく。あらゆるものは、変化し続けているもの。
この考えは「諸行無常」としてもよく知られており、「当たり前」のようにも感じられる教えかもしれません。
でも、はたして、我々はその「当たり前のあるがままの姿」を正しく見つめられているのだろうか?そうブッダは我々に問うのです。
生きていれば思う通りにはならぬ苦しみが起きうるもの
あらゆるものが変化し続けるゆえに、
自分も大切な人も、今のままであり続けることはなく、時に病を起こし、事故や事件や災害に苛まれることもあり、かならず老いも死も起こるものである。人は独りでは生きられず、集団で支え合わねば生きられないもので、そうるすと、「自分だけ」の考えや主張や希望がまかりとおらないときだってある。
それがゆえに、何事も「自分の思い通り」とはならないものである。
それが、「当たり前のあるままの姿」ではないだろうか。
個人がそれぞれ希望や期待を思い描くのが悪いわけではないが、必ずしも「自分(だけ)の思う通り」にはならないのが現実。自然の環境や社会の在り方の前では、個人の希望など簡単に翻弄されるのが切ないながら現実。
なのに、我々は時に「自分だけは(正しい)」「自分こそは(優先されるべき)」と、自分主体で物事をみてしまってないだろうか。
そんな自分の考えだって、今のまま永遠なんてことは起こらず、他人の考えだって自分と違うものであって当たり前だし、同じであり続けることなどないのにも関わらず。
自分の健康や命に限らず、富や名声やキャリアだって、大きな社会の変化の中で、相対的な価値が変わり、「自分のもの」と思っていたものが、手から離れていくことだってある。自分の思う通りに有り続けるわけではない。
どれだけ富や名声を築いても、晩年、病気や事故やトラブルでそれらが「自分のもの」でなくなるケースは起こり得る。
だから、生きている以上は「(自分の)思う通りにならない」ということは起きる。
もっとシンプルにいうと、「生きているかぎり、思う通りにならない苦しみは起こる」のが「あるがまま自然」な姿である。
その自然の理に気がつけず、「なぜ思う通りにならない」「思う通りになってほしい」と囚われると、苦しみは消えず、むしろ膨らみ苦しみは増す。
じゃあ、どう生きればいいのか。
希望を持たず、欲を諦らめていきればいいのか。
そんなことはない、とブッダは説くのです。
「諦らめる」という言葉には
give upという意味もありますが、一方で「真実を見極める」という意味もあります。
「明らめる」とでも言いましょうか。
「何事も変化するゆえ、自分だけの思う通りにならない」のが、明らかな、あるがままの真実である。
そう、勇気をもって正しく見定める智慧を育て、その智慧にそって生きれば、苦しみにくくなると。それが「正しい生き方」だと。
そうブッダは説きます。
正しく生きれば苦しみにくくなる
「苦しみ」に苛まれない「正しい生き方」とはどんなものでしょうか。
まず「自分の思う通りになる、手に入る、持ち続けられる」などといった考えは、「自分中心」の視点に囚われ、自分という存在も自然や社会の一部でしかないという、全体的な視点を見失っている、「自分ばかり」と極端な物の見立てかもしれない。
それに気がつく「正しい見立て」が必要である。
そうブッダは説きます。
自分か周りか、白か黒か、といったような極端な物の見立てや行動にとらわれず、自身は惑いやすい(見えてないことがある)ことを正しく自覚することが、まず大切である、と。
そして、自分だけで生きているのではないのだから「自分ばかり」ととらわれず、他を損なわず善き行動・善き言葉(愛のある言葉)遣い・善き心持ち(怒らず貪らず集中力や注意力をや保ち)を心がけることが大切である。
それは、結果として自分の心もおだやかで苦しみにくくさせてくれる。
そして、それら正しき行い、生き方を継続して悪しき状態に陥らぬよう正しく努力する。
そうした「正しい生き方」が、苦しみに苛まれにくくなる生き方だ。
ブッダはそう説きます。
正しき生き方とは?
「正しい生き方」というものを、もうすこし具体的に見ていきましょう。
それは、たとえば、生命を殺めたり、与えられてないものを手にしたり(盗んだり)、淫らな行いをしたり、嘘や二枚舌など人を惑わすことを言う事を避ける。
これらは、人との関係を乱し、集団に居続けにくくなることだから。
(ちなみに、この4つはユダヤ教でも、そこから派生したキリスト教でもイスラム教でも説かれている教えです。人として普遍的な教えなのではと考えています)
そして、周りの人や生き物に共感力を育て、苦しみや喜びを分かち合い、持ちうる範囲で分かち合い、できる範囲で支え合う、思いやりをもって人と接するよう心がける(慈悲の心持ちを持ち、実践する)。かつ、善き友と付き合うようにする。道徳的によからぬ場へ出向ことは避ける。
これが、人々の間の対立を避けて、自分は「なんでも思い通りにできる」という錯覚による苦しみから離れられて、「苦しみ」に苛まれにくい"生き方"である。
それは、いかなる時、いかなる所、いかなる人においても普遍的な理(ことわり)、法則ではないだろうか。その教えが「ブッダ(仏)の教え = "仏教"」の基礎。
そう理解しています。
自分を頼り、内心を清らかにし、内なる火を灯せ
ご覧頂いて分かる通り、ブッダの教えは、日常での考え方、心の持ち方、行動の在り方、話す内容、など、人間の内なる在り方を磨くことを求めています。その努力(精進)を求めています。
現代では、小学校の道徳の授業でも習うような「ありふれた」なものかもしれませんが、果たして、その「ありふれた」教えは、日常でどこまで実践できているでしょうか。
それは、以外に難しいことかもしれません。
その実践よりも、自分の富や名声や、自分の権利ばかりを追い求めがちな価値観が現代では広がっているのではないでしょうか。
ブッダの時代も、貨幣経済の普及から、そんな価値観が広まった時代だったようです。
でも、ブッダは、苦しみに苛まれにくい生き方を目指すなら
肩書や、見た目や、家系など生まれた環境といった自分の「外側」のものではなく、その人自身の人間性といった「内側」こそ重要であると説いています。
外側のものを追い求めるのが悪いわけではないでしょう。
でも、自身の内面を顧みず、肩書や資産などの外側ばかりを追いかける生き方は、時に「もっと」と貪りが生じ、それが「満たされない」と感じさせる苦しみをもたらし、他人が手にできるかもしれない分まで自分の権利を優先しよう、自分は道を譲らないけど相手が譲るべき、相手が間違って自分こそが正しいから相手が謝るべき、などなど、自分ばかりを正当化する自身を生み、周囲から妬まれたり攻撃されたり、かえって幸せから遠ざかりうる。外側ばかりを求めるほど、かえって苦しみをもたらしやすくなる。
苦しみに苛まれにくく生きるならば、外側を追いかけるのを辞めるのではなく、内側を磨き、育てていくのが大切ではないか、と。
内なるもの、それは、様々な刺激や誘惑、刹那的な快楽に耽けらない自制心や、自分を客観視して偏見にとらわれない柔軟な思考だったり、耳目を引く出来事やニュースなどに惑わされず「今ここにあるがままあるもの」に心をとどめる集中力であったり、それらの心持ちや思考を失わぬよう「よく気をつける」注意力であったり、それを持続できる忍耐力であったり…。
内心を清らかにし、内なる火を灯せ、と。
そして、それをできるのは、周りの誰かではなく、自分でしかないのだから、他を頼るのではなく、自分を頼りにしなさい、と。
自分を頼りといっても、自分の好き放題にしてよいわけではなく、苦しみに苛まれにくい生き方の道しるべとして、ブッダが発見し伝えた「普遍的な理」を頼りにしなさい、と。
これが、ブッダのオリジナルな教えの土台です。
コンパクトとはいえ、長くなってしまいますね。
これでもまだまだ一部でしかなく、彼自身が語ったとされる素晴らしい教えがあるのですが、年始のおさらいとして、ここではこのくらいにさせてくださいませ。
さらにご興味があれば、より細かいブッダの教えについてまとめたブログがありますので、ご笑覧くださいませ。
と、上記にイロイロと書いてますが、いかがでしょうか。
「なんだかたくさんあって覚えにくい」かもしれません。
そんな課題に応えるべく、ブッダ亡き後に、仏弟子たちがブッダの教えを覚えやすく体系化してまとめてくれています。
蛇足的かもしれませんが、
下記、それらについてもまとめさせていただきます。
(補足)後世でまとめられたブッダの教え
正しい生き方の道しるべ - 八つの正しい道「八正道」
ブッダがわかりやすく様々に説いた、苦しみにくい生き方。それを後世の弟子たちがまとめて体系化したのが、「正しい生き方」としての「8つの正しい道」である「|八正道《はっしょうどう》」です。
|正見《しょうけん》:正しい物の見方(自分が見えていると信じるものが全てではなく、見えてないものがあったり偏ったものの見方をしているものであり、「ゼッタイこうだ」といった考えは、"極の端"といった一部だけを見てて「全体を見れている」とした誤解であると自覚し、俯瞰的に多角的に物事をあるがまま見る)
|正思惟《しようしゆい》:正しい考え(あらゆる物事は常に変化し、世界は自分だけでなりたっているのでもなく、ゆえに自分だけの思う通りになるものなどないという世の理を正しく理解する。自分ばかりと貪っても自分を苦しることにも繋がり、怒りは誰のためにもならず「自分だけの思う通りにならない」ワガママが膨らんでいる様であると自覚する)
|正語《しょうご》:正しい発言(ウソやきれい事、二枚舌、悪口を避け、愛のある言葉を心がける。人を惑わしたら、自分を支える集団の和を乱し、自分も苦しみうるものである。)
|正業《しょうごう》:正しい行い(日常の中で、自分ばかりと貪らず、自分の思うとおりでないと怒らず、惑わず、欲に耽らず、自身を律してよく気をつけて生活する)
|正命《しょうみょう》:正しい生き方(周りに迷惑を与えたり害したり、人の欲を掻き立てるなど、集団の和を乱すことにつながる仕事や生き方を避けことを避け、努力して善き生き方/命の使い方を選択して生きる)
|正精進《しょうしょうじん》:正しい努力/精進(善きことを起こし、より続けるよう。悪しきことを遠ざけ、より収めるよう、努力する)
|正念《しょうねん》:正しい注意/配慮(心がみだれぬよう、誘惑に惑わされぬよう、自分や周囲をよく注意し、配慮し、気をつけて観察し、「あるがまま」のさまを見定める)
|正定《しょうじょう》:正しい集中力(こころや呼吸を穏やかにととのえ、様々な刺激や誘惑に振り回されず、本来目指すべき生き方、在り方から外れぬよう、意識の向き先を正しく定め、集中を保つ)
以上、八つです。盛り込みすぎでしたらスミマセン。多くは、すでに述べたことを、8つのカテゴリにまとめているものです。
何かを期待し望んで生きるほどに「思う通りにならない」苦しみは生まれるものだけれど、この八つの正しい生き方(道)をたどれば、苦しみから離れやすくなる。それがブッダの見つけた真理である。と、まとめられています。
正しい生き方の歩み方 - 中道
さらに少しややこしくさせてしまいますが、ブッダの説く「正しい生き方」は、八正道とは別に、さらに凝縮させて「|中道《ちゅうどう》」とも呼ばれてます。
※孔子が説いた「中庸」(過ぎたるは及ばざるが如し)と「極端に走らない」という点では共通していますが、別物です。
「中道」は、教えを短い言葉に凝縮されているがゆえに、様々な解釈がされてますが、下記は自分なりの理解です。
あらゆる物事は変化し続けているものであり、白か黒かといった"極端"などちらか2つに一つというものではない。世の中の出来事は、明かりがあるから暗がりもあるし、晴れがあるから雨もうまれるような、相互の存在が依存しあい変化し続けているものであり、白か黒かどちらかだけという状態はない。そこではつねにグラデーションのような"あいだ"となる状態がある。
これは、単に「極端は避けるべき」という考えだけではなく、明(白)があるからこそ暗(黒)もあるもので、世の中の出来事は常に互いに依存しあいグラデーションという変化を持ちながら繋がっているのが「あるがままな(自然な)姿」である、という概念も含んでいる。
そうした中道の考えかたは、YesかNoかといった対立を避けやすく、「思う通りにならない」苦しみからも離れやすい。
それは、どっちつかずというものではなく、事実自然界には完全な黒や白はなく、常に変化しグラデーションの状態のどこかにおり、Yes or Noと割り切れない物事ばかりである。
それが「あるがままの正しい姿」と理解すること。
自分の立場だけの物の見方をするのではなく、自分とは異なる立場の物の見方もふくめて、全体を俯瞰的に見て解釈を試みるスタンス、それが「中道」的なスタンス。そう理解しています。
八正道と中道の関係は、様々な解釈もありますが、仮に八正道に説かれている「正しい生き方」であっても、「一言もウソを言わないように怯えて喋らない」「常に努力できているだろうか不安に苛まれる」など極端な状態になっては、「苦しみから離れる」ゴールには近づけない。
苦しまずに生きる道しるべ(which way)としての「八正道」があり、その「道」の進み方/ありかた(how)としての「中道」がある。
そんなふうに自分は捉えております(あくまで自分の一つの解釈です)。
(補足2)避けるべき3つの悪
さて、もうこの辺で一旦このブログを閉じてもよいのですが、、ブッダの説いた、避けるべき事柄にも、具体的に触れておきます。
仏教では、避けるべき事柄を「襲いかかる悪魔」と表現してます。
それら「悪魔」の後世の弟子たちによるまとめも含めてこちらにまとめてみます。
「もっと」の貪りが尽きぬ渇望
仏教は「欲は良くない」と思われがちですが、自分はそうは解釈しておりません。生きていれば、できれば健康でいたいし、幸せにいたい。お腹がすけば食べないと生きていけないし、恋をして子どもを作らねば種として生き延びられない。欲そのものは「自然に生まれる」ものだけれど、時に、「もっと」が貪りが尽きぬことがある。
それは、喉の乾きを海水で癒そうとするように、満たされることを期待して求めるほど、自分をかえって苦しませる渇望というもの。
自分も誰も喜ばない「怒り」という感情
仏教では「怒り」について否定的にとらえています。怒りは「(自分の)思う通りにならない」感情が、自分では抑えきれずに、自分の外の何かにぶっつけることで「思う通りにならない」様を解消しようとする行為。
でも、すでに述べた通り、あらゆる物事は「(自分が)思う通り」になるとは限らないもの。他人の考えも自分と違っても当たり前だし、自分からみれば「こうあるべき」も、他人は違う考えをもつことだってある。「バカにされた」という感情も、「自分はこう思われたい」という、自分の中だけで描く自分の姿が、期待どおりに他者から描かれてないといった、自分の中で起きてている「思う通りでない」状態。
それを、外部に「怒り」としてぶつけても、「思う通り」になるわけではない。赤ん坊が泣き叫べば、誰かがゴハンを与えてくれてお腹の減りを満たしてくれたり、オムツを取り替えてウンチの違和感を取り除いてくれたりするものだけれど、喚けば「思う通り」になるものではない。
それどころか、「怒り」は周りを萎縮させたり、自分に対する嫌悪感を周りに植え付け、周りから避けられるようになったり、時に周りに恨みを与えて復讐されることもあるかもしれない。誰も、喜ばない。
そう、仏教では悪しきもので、避けるべきものとして「怒り」を説いてます。
分かってない自分を分かっている勘違いである「惑い」
ブッダと同時代で、インドから少し離れたギリシャでは、ソクラテスが「無知の自覚」を説いてます。「知っている」と思った時、まだ知らぬことを知ろうとする成長の機会を失い、にも関わらず「知っている自分」という奢りをおこし周りからの尊敬も失うかもしれない。「知らぬことがある」と常に自覚すべきだ。そういった教えとほぼ近い教えを、ブッダも説いています。
「無知の自覚」だけではなく、「こうにちがいない」「これが正しい/あれは間違い」という白黒つけた断定や決めつけも、同じく、自分の考えしか見えてない「惑い」である。
自分が見えている物事は、物事の一部でしかなく、全体は見えてないかもしれない。見えているという解釈は「惑い」かもしれない。それは、物事の全体像を見失うばかりか、意見の違う他者との衝突や分断も起こし、個人としても、集団としても善きことではなく、避けるべき。
また、どうにもならぬことを「思う通りにしたい」と囚われることも、同じく「惑い」と説いています。例えば、自分の子どもでも、自分の意思で動くわけではなく、その子どもの意思で人生は選択されていくものですが、にも関わらず「自分が望むとおりに生きていほしい」と思うほど、「思う通りにならない」苦しみは増していく。そして時に子どもにも「親に理解されない」「生きたいように生きられない」苦しみを与えて互いに不幸になりうる。
これは、親の自分は、これまでの経験から見えているのだから「正しいこと」を知っていて、それを子どもにも当てはめようとしてしまう状態かもしれない。でも、親の自分が生きた時代で獲得した「正しいこと」は、物事の一部しか知れてない「正しさ」かもしれず、時代が違うし育っている環境も違う子どもにとっては「正しくない」ことかもしれない。
自分が何でも知っていて正しいという、錯覚が、自分を苦しめ、周りを苦しめたり衝突を起こしてしまうのかも知れない。
何でも自分が正しいという考えは、それは錯覚かもしれない「惑い」である。
「お金こそすべて」「成功しなければ幸せになれない」などといった考えも、必ずしも「ゼッタイそうだ」とは言い切れないかもしれない。あらゆる物事は変化していくのだから、「お金」への価値感だって変わるだろうし、何を実現すれば「成功」と評価できるのかの考えだって変わりうるのだから。
「ぜったい〜〜」というのも「惑い」では。
そのように、ブッダは「惑い」を、様々な苦しみを生むものとして、避けるよう説いています。
言い換えると、自分の価値観や知識は大切にしつつ、それとは違う価値観への想像力を鍛えたり、まだ自分が知らぬ物事があるという謙虚と好奇心をもつことが、結果的に自分を育て、周りとの関係もスムーズにする。そんなふうに考えております。
避けるべき三つの悪「貪瞋痴」
上記の、貪らない、怒らない(瞋は怒りの意)、惑わない(痴 - 間違った見解に惑った状態)の3つは、仏教における「三悪」としてひとまとめにし、避けるように説いています。
なかでも「分かっている」という囚われた状態を指す「惑い」は、物事が冷静に正しく見えなくするがゆえに、どこまでも貪る自分を生んだり、どうにもならぬことを「どうにかなる」と錯覚し「思うとおりでない」怒りを起こすなど、最も避けるべきとしています。
「とんじんち」は聞いたことがある方には、覚えやすいまとめ方かもしれません。
と、まだまだ、後世の仏弟子たちがまとめてくださった、「ブッダの教え」はたくさんあるのですが、詳しくは前述のブログに委ねるとして、ここはこのくらいにさせてくださいませ。
これだけでも、そこそこボリュームになってしまいました😅。
いよいよ終わりましょう。
「もう僕疲れたよパトラッシュ」かもしれません😅。スミマセン🙏。
最後は、ブッダの生き様から感じる、大切な教えについて触れさせていただきます🙏
人は悩み迷むもの - ブッダですらそうだった
ご紹介した本「原始仏典」の著者である中村元先生の言葉で、僕が好きな解釈jに
「道を実践することのうちに解脱がある。道によって解脱に達するのではなくて、道そのものが解脱なのである」
というものがあります。
「解脱」は「悟りの境地」とも語られますが、「苦しみから離れた境地」とでも捉えてくださいませ。
どういうことでしょうか。
それは、仏教は、知識を得たり「悟り」を得るなどで、完成とはならない。
「完成」を目指しさまよい続ける状態にこそ意義がある。
そんな感じで解釈しています。
たとえば、このブログで書き連ねたブッダの教えを「知識」として覚え、それを「知っている」としても、それは、悟りや解脱を与えてくれるものではない。それだけで「生きづらい」生き方から解放させてくれるものではない。
もっと経典を読み込んでさらに「もっと」知識を学べばよいのだろうか?
それとも激しい修行を「もっと」体験すればよいのだろうか?
そうではない。
いっときの知識や体験の先に解脱や悟りが訪れ、修行が完成するわけではない。
その教えの実践を継続している状態こそが重要なのだ。
何に重要か?
「苦しみに苛まれず生きる」というブッダの目指した生き方において重要なのだ。
そう考えております。
つまり、仏教は、知識や一時の体験だけで心の平穏や苦しみからの解放が生まれるものではなく、生きている間での実践の継続こそが、心の平穏をもたらし続けてくれる。
知識を得るとか、滝行や修行を体験するとか、一時期の出来事で、その後一生続く「解脱」のようなものが得られるのではなく、「教えに基づいた日々の実践」の"状態の維持"こそが「解脱」(心を苦しめる物事からの解放)の状態となるのだ。
そう、考えております。なーんにも、解脱も悟りも分かっちゃいない人間としての、極めて薄っぺらな解釈ではありますが…。
継続は力なり。という言葉の重みを感じさせてくれます。
ブッダその人も、80歳で死ぬ間際まで、弟子に怒りの感情とも取れる姿を見せたり、決して、スーパーヒーローのような完全無欠な人などではなく、悩み、惑いもした、生身の人間だったのだと、そう考えております。
実際に、悟りを開いたあとも、「それを人に語っても理解は得られないだろう」と、何もしたくない気持ちで悩んだり、様々な悪魔(誘惑や迷い)に襲われ苛まれた姿が描かれています。
ブッダの遺言- 最後まで油断せず「よく気をつけて」
でも、だからこそ、経典でも、ブッダが何度も「よく気をつけて」と説う姿が残ったのでは。
だからこそ、下痢という人間くさい理由で去っていった彼の最期の言葉/遺言も、
「怠ることなく、修行を完成させよ」
というものだったのでは。
勝手ながら、そう感じております。
つまり、
「(自分も油断することがあるからこそ)最後まで油断することなく、よく気をつけて、精進を続けよ」という、メッセージを弟子や後世の我々に遺してくださったのでは、と。
それは、凡人である自分にも勇気を与えてくれることでもあります。
なにより、自身が80歳になってまで下痢に絶えながら旅を続け、倒れた先で苦しみつつ死の間際で語る言葉は、自分ごとではなく、弟子や他者を思う言葉だったのです。
その、他者を思いやる生き様そのものが、その最期の姿と言葉に象徴されている。
その生き様こそが、有り難いメッセージなのだと感じております🙏。
だれもが、惑うものだからこそ、よく気をつけて。
自分ばかりとなりがちなのだから、よく気をつけて。
欲に負けることや怒りに流されてしまうことも、あるものだから。
「思うとおりでない」ことは、常におこるのだから。
自分はみな大切だけれど、自分だけの「思う通り」になるワケはないものじゃないか。
「自分が勝手に望んだ姿」通りに世界が動くハズはないじゃないか。
だから、「自分ばかり」「自分こそが」とワガママに惑わされず、周りや他人のことをよく気をかけていれば、
「(自分の)思う通りでない」苦しみに苛まれにくくなる。
そして、周りを気にかけて思いやる姿勢は、周りから支えて愛されやすい自分も生まれ、結果自分も幸せを感じやすい時間が生まれる。
だから、最後まで、油断せず、よく気を付けて。
そんな努力を続けていきましょう。よく気をつけて。
いやー、コンパクトなのに、長くなってしまいました。
でも、善き復習になりました🙏。
お付き合いくださり、有難うございます。
なにより、こういった素晴らしい教えを起こし
2500年もの間紡いで来て頂いた、
全ての仏道を進まれる方々に、心より感謝いたします。
この場を借りて、大変有難うございます🙏。
*「ブッダ」という呼称は、当時のインドでは「理想的な修行者」や「悟った」とされた人たちの一般名称だったそうですですが、ここでの「ブッダ」は、現代の日本で「お釈迦様」とも「釈尊」とも呼ばれ、当時ゴウタマ・シッダールタという名で生きたとされる方である、固有の「ブッダ」その人を指して語っております。
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