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『火垂るの墓』で清太を批判する人が好きじゃない

あの時代、未亡人のいうことぐらい特に冷酷でもなんでもなかった。

清太はそれを我慢しない。
徹底して社会生活を拒否するわけです。社会生活ぬきの家庭を築きたかった。
無心に”純粋の家庭”を築こうとする。

そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。

しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。

おとなもみんな清太になりたがり、自分の子どもが清太的になることを理解し認めているんじゃないんですか。
社会生活はわずらわしいことばかり、出来るなら気を許せない人づきあいは避けたい、自分だけの世界に閉じこもりたい、それが現代です。

清太の心情は痛いほどわかるはずだと思います。

現代の青少年が、私たちおとなが、心情的に清太をわかりやすいのは時代の方が逆転したせいなんです。もし再び時代が逆転したとしたら、果して私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。

全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。

清太になるどころか、未亡人以上に清太を糾弾することにはならないでしょうか、ぼくはおそろしい気がします。

https://sleepymame.hatenablog.com/entry/2018/04/09/103210 より (原文アニメージュ1988年5月号(未確認)

終戦記念日の日に、『火垂るの墓』を最近見直してみました。
思うのですが、ここ10年辺りで清太にあまりいい評価を下さない傾向が強まっているように感じます。

私は清太に感情移入する派なので、少なくとも理解はしておきたいと思い、軽くググり倒した結果としては、「法外を想像出来ない」感情の貧困さにあるなあと感じましたね。

インターネットの言論に関しては、見ようと思ってブックマークを漁る→リンク切れだった!という悲劇が頻繁に起こる分野でもあるんですよね。
インターネットアーカイブとかで補完できるケースもあるんですが、マイナーなサイトになるとなかなか無かったり、記憶が曖昧だったりで難しいケースも割と頻繁にあります。

『火垂るの墓』の話に戻すと、高畑勲は西宮のおばさん以上に清太を批判する意見が主流になった社会は余裕がなくなってきているって事だから、気をつけなきゃねという趣旨だったのかもしれません。
私はこの発言に賛同出来る節はかなりあって、事実『火垂るの墓』は嘗て終戦記念日になると再放送されていた時代があったのですが、それも最近はなくなってきていますね。
(視聴者サイドからすれば、このような時代に辛気臭いものを見たくないのかもしれない)

個人的にはそれこそ、中国や北朝鮮、ロシアの侵攻やトランプ再選のリスクがある現代こそ観ておくべき教養だと思うんですが。

いやあ、いやあ、嫌な時代になって来ましたね。それでも情報収集の為のネットは辞められないものですが。
とまあ清太批判はこれから強まっていくでしょうから、そうなったら戦争への道が近付いてきているんだと思います。
そしてある程度豊かになったら清太に共感する意見がちらほらと………

世界はループしているんでしょうかな(´・_・`)

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