自殺の準備ができたなら
これを読んでいる間にも、世界のどこかで息絶えた人がいる。どういう経緯で死に至ったかなどこちらには微塵も関係ない。当分来ないはずの自分の番をいかにして早めようか。そんなことばかり考えている。
今どきホームセンターで七輪を買うやつなどいない。自害を選ぶほど外界との接触を嫌う人間がどうしてレジ待ちをできようか。
木炭と煉炭との違いなどわからない。不完全燃焼がどうとか、そんなことは一生理解できないままでいい。ただ眠るだけで全ての荷を下ろせるならそれでいい。
目張りテープなどせずとも、部屋で暖を取りながら永眠に就いてしまった人がたくさんいただろう。しかし念には念を。後遺症と共に生きる余分な人生ほど滑稽なものはない。
マッチやライターの火も風情があって良いが、ガスバーナーのボーッという音が潔い。ジワジワと迫り来る死より、なるべく迅速についてくれる眠り。ただしイメージではある。
心療内科で勝ち取った睡眠薬。使う場面は自分で決める権利があるのだろうか。たとえなくとも作り出すまで。眠りたい時に眠るのはそんなにいけないことなのだろうか。
やけ酒とはまた少し違うアルコールの摂取。むしろお祝いに近いものを感じる。はたまた養命酒を飲んで健やかな自分へ乾杯を捧げる儀にも思える。
もし失敗したら、恥ずかしい内容の遺書を読まれてしまうだろうか。昏睡状態の間に目を通され、同情を誘うことになるかもしれない。そんなことになるくらいなら端から書かないでおこう。今はスマホのメモにでも留めておこうじゃないか。
そもそもなぜこんなに考えを張り巡らせなければならないのか。
普通に生まれて、普通にご飯を食べて、普通に寝て、普通に起きる。たったそれだけがこれほど困難を極めるとは思いもしなかっただろう。
自分は社会のどの位置にいるのだろう。できれば半分よりは上にいてほしい、そう思いつつも現状を嘆き、あらゆる選択を違えてきた軌跡を辿る。わざわざ惨めな生き様を回顧してまた絶望感に苛まれる。
神が手を滑らせて、どこかの地点からやり直す期を与えてはくれないだろうか。宝くじで高額当選して、寿命が尽きるまで愛する人と共に過ごせる日々は来ないだろうか。負を抱えて生きていくことの苦しさを、布団の蛹の中でひしひしと感じている。
全てそろった。機は熟した。
顔に感じる空気の冷たさを、どうするか考える。