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型通りのコミュニケーションの「面倒くささ」

コミュニケーションには時折、伝統芸能のような「型」が求められることがある。

日本人的なもので言えば「謙遜」というのはその好例だ。
例えば目上の人から「●●さんはすごいね」と言われて「そうなんですよ、私すごいんですよ。てか、気づくの遅くないですか?」などとという人は珍しい(いるのか?)。
大体は「いえいえ、まだまだです」「恐れ入ります」などと少し相手の称賛をいなすという身の振り方をするのが一般的だ。

こういうやり取りはコミュニケーションを円滑にするために必要である。
そして当たり前だが、相手も自分も「当然こう言ってくる(言わねばならない)だろう」という認識が共有されているからこそ成立する。

先日奥さんと話していた時、ある友達との会話の中で必ず「そんなことないよ」と言わねばならない瞬間が何度か訪れると話していた。
具体的なケースまでは聞かなかったが、わかりやすく言えば「わたしなんてすごく太ってるし…」という女性に対して「そんなことないよ」というのと同じような感じである。

これもまた先ほど触れたコミュニケーションの「型」みたいなものなのだが、非常に気立ての良い奥さんがその友達との会話における「そんなことないよ」待ちの瞬間が非常に「面倒くさい」と言っていて、これには私は大いに笑ってしまった。
コミュニケーションの様式美みたいなところはあるにしても、「面倒くさい」と思うのは実に人間としてまっとうな感情である。

しかしなぜ面倒くさいのかを考えてみると、単に共感を求めるためだけの対話であったりして、会話内容に何も意味がないやり取りであるからなのだろう。例えば先ほどの「わたしなんてすごく太ってるし…」という言葉を言われれば「そんなことないよ」というわけだが、会話の流れなどのなかですでに(この人は自分が本当にすごく太ってるとは思っていないんだろうな)というわかりきった結論が見えてしまっているのである。
つまり「自分の中ではっきりとした答えが出ているのなら、わかりきったリアクションが返ってきたところであなたにとって何か意味はあるんですか?」という話になってしまうのである。

この「何の意味もないやり取り」を強いられるというのは、言い方を変えれば、会話の主導権を自分ではなく相手が握っている状態にあるともいえる。相手の求めるように対話することを強いられ、そしてその会話が意味をなさず、ましてお金が生じるわけでもなければ、そりゃあだれしも面倒くさいだろう。

ま、あれこれ言ってしまったわけだがそういう面倒くさいやり取りも含めてコミュニケーションだ。
あなたがとるに足らない話に付き合わせるくらい信頼を置いている目の前の人とは、「こういえばいいんだろ。めんどくせーな」と思いながらも共感してくれるほど気の良いやつであるという事実を、頭の片隅に置いておくべきである。

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