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【育児】仕事と、育児と、危機と、平穏と。
子どもは平気で40度近い熱をしばしば出す。
そのたびに奥さんと協力しながら、仕事を休んだり、抱っこしつつ仕事をしてみたり、時には実家の母親を召喚したり、奥さんが実家に帰って新幹線で通勤(!!)したり、いろいろ工夫をしながら子供の看病をしつつ、日々をしのぐことになる。
私は記者なので、子供を抱っこしつつ仕事をするということができないことはない。当然取材はほぼ無理になるので、仕事の質は下がり、自分にとって納得がいく仕事ぶりにはならない。
時には取材の日程を調整したり、別の人に仕事を振ったりして、うまいこと対応することになる。
そのとき、そこはかとない焦燥感が自分自身に訪れることがある。これほど中途半端な仕事ぶりでいいんだっけ、と思うのだ。「本来であればもっと取材ができた」「もっといろんな話を聞くべく人と会えた」「もっと幅広く調べられた」と思うのに、それが現実にはできていない。
とはいえ娘を下ろしたら泣いてしまうし、言うまでもなく娘の体調を回復させることは極めて重要だ。となると、娘が自発的に起きるまでは、抱っこひもを外す選択肢もない。
と、こんな調子でいろいろ頭の中をめぐりながら結局のところ現状維持となる。私が思う「これほど中途半端な仕事ぶり」でも、仕事が滞ってしまってにっちもさっちもいかない、というわけでもない。だから、今のままでも別に仕事が回っていないわけではないともいえるのだが、どこかで私はひっかかっている。
おそらく、私の中に仕事をしている私の理想みたいなものがあるのだろう。
仕事を回すうえで何ら問題がないとはいえ、その「理想」から大きく離れている現状に違和感があるのではないか。
ここでもう少し考えてみると、一つの疑念が浮かぶ。それは、仮に娘が発熱していなかったとしたら、自分は「理想的な仕事」をしようとするのだろうか、ということだ。
情けない話だがこれには自信をもって首肯できない。
おそらく娘が発熱していなければ「きょうは暇だなあ」などと思いながら適当に仕事をするのが私の性分だ。ある程度自分自身を追い込み、納期に追われ、初めて頭を使って頑張り始めるのだ。
そういった己の怠惰な性質もわかっているのに、娘の発熱といった現実的に「どうにもならない」状況にあって初めて「もっと頑張れたんじゃないか」などとたわけたことを考える自分がいる。天邪鬼というかないものねだりと言えばそれまでだが、結局は自律できていないんじゃないか、と思う。
31年という年月の中でいろんなことをしてきたつもりだけれども、私という人間はなお青々としていて、そして未完成なのだと思う。
そんな未熟な立場で子供を育てているという現実が、あまりにも不思議でならないのである。