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生きるための「なかま」を作ろう

日本では残念ながら、年数万人単位で自ら命を絶つひとがいる。
特に有名人の自死はとりわけ世の中でも話題になりやすい。私も報道を担う端くれとしてそのようなニュースに接することはしばしばであるが、そのたびにむなしさのようなものが去来する。

過去自ら命を絶った人のことを調べてみると、いたく暗い気持ちになる。
乃木希典や阿南惟幾のように大義を以て自らの終わりを決めるというのは例外だろうが、大半の場合は人間関係のストレスやトラブル、日常生活における何らかの困難のようなものが引き金になっていることがうかがえる。
文芸評論家の江藤淳は「自ら処決して形骸を断ずる」と遺書に書いたとされている。この言葉に出会った時、あまりにもむなしいと感じた(形骸というのは「中身のないもの」みたいな意味合いだ)。

前も書いたが、一人であると猛烈に不安になったり、まっとうな考え方ができなくなったりしてしまう。少しストレスがかかることもあるけれど、とりあえず人間と接することで自分を保つみたいな部分が、濃淡はあれ少なからず人間にはあるのだろうと思う。

だから何でもいい、とにかくコミュニティに属する、ということは結構大事なことだと思う。会社でもいいし、お稽古でもいいし、旧友でもいいし、なんでもいい。外に出るのは幾分おっくうかもしれない。でも、その全員と仲良くしなくても一部の気の合うやつらとよろしくやっているだけで、少しはましなんじゃないか。

そして、そういうコミュニティを若い今に作ることが大事だと思う。
なぜなら、悲しいかな人はそのうちに命を終えるからだ。つまり、コミュニティにいた人は少しずつ減っていくのである。

中学生のころの同級生が、以前バイク事故で急死したことがあった。まさか自分と同じ年のやつが死ぬなんて――と想像もしていなかったけれど、死はいつの日か、必ず、だれにでも平等に、やってくる。

この瞬間にも自死であれ自然死であれ他殺であれ、ひとり、またひとりと命を落としている誰かがいる。そしてその「ひとり」は、誰かにとっての大切な人であったり、誰かが所属していたコミュニティの「ひとり」だったのかもしれないのだ。

だから、「自ら処決して形骸を断ずる」なんていって自らの終わりを決めても、その死に強烈な喪失を味わうことになる人もどこかにいるのである。
もし己が「形骸」という意味のない存在だと少しでも思うなら、自分一人で考え込むのではなく信頼に足る誰かに尋ねてみたっていい。
生きる意味の答えは、自分ではない誰かが持っていることだってある。

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