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終わりゆく夏に見えるもの

フジファブリックの名曲で「若者のすべて」という歌がある。
「♪真夏のピークが去った…」という歌詞から始まるのはあまりにも有名だが、私の奥さんの友達に毎年真夏のピークが去ったあとに「若者のすべて」を聞くという律儀な人がいる。
季節も相まって、若者のすべてが沁みるようで最高に感情が揺さぶられるらしい。

多くの歌には季節がある。歌詞はもちろん、メロディーによってさらりとした春の陽気を感じることもあれば、照りつける夏の日差しを思うこともある。または肌寒い秋の夕暮れに思いが至ることもあれば、しんしんと雪の降り行く冬を想起することもある。
そうした歌の持つ季節の中で「夏の終わり」には懐かしさに似た、なんとも言えない感情が溢れる。

井上陽水と安全地帯の「夏の終わりのハーモニー」、杉山清貴&オメガトライブの「君の心はマリンブルー」、サザンオールスターズの「真夏の果実」など挙げればキリはないけれども、そういった出色ともいえる歌の中に、間違いなく「若者のすべて」は名を連ねるだろう。

当初聞いた時は「これが若者のすべてなのか?」と思ったものだが、何度か聞いていると世界の切り取り方が若者そのものだと気づいて、この曲は「若者のすべて」に他ならないと感じるようになった。

「真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた」という最初のフレーズも、曲調も相まって実に大人になりきれていない若者らしいやるせなさと、いくばくの若者ならではの関心の薄さと、そして客観性を感じさせてくれる。これが実に不思議である。
夕方5時のチャイムなんて仕事をしていれば聞くことなどほぼないし、チャイムを聞いたとしてもそれは便利になりすぎた今の時代において、時間を伝える意味をほぼなくしている。それでもそのチャイムが胸に響く感性そのものが若者ならではである。
そして花火大会で好きな人や友人と会い、そして(告白なのか言えなかった何かを)「言えるかな」と瞼を閉じて浮かべるのも若者であるし実際に会えたところでどうなるのかわからぬまま歌が終わるというのも洒落ている。
「若者」が見ている景色は、どれも現実を見ることを強いられ,目の濁った大人には見えなくなった景色でもある。

あれほどに猛暑を嫌がっていた私たちなのに、終焉を迎えつつある夏の終わりに至るとなぜか懐かしさを覚えてしまう。
季節の変化の中で真夏のピークが去ったとふと気づくのもまた乙だけれど、「若者のすべて」を聞いて懐かしい感情に自らが支配されたときにはすでに真夏のピークは過去の思い出となっていて、秋に向けて溶けゆく夏に、一人の若者の姿が重なっている。

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