報道とは、社会の日記をつけること
「8月ジャーナリズム」という言葉がある。
毎年8月になると堰を切ったように平和や戦争に関わる報道が目立つようになることを指す言葉だ。ともすると「毎年毎年、また同じようなことやってるよ」というマンネリ感を揶揄するニュアンスもある。
確かに、物心ついたころから漫然とテレビを見ていると、8月の夏休みには決まって戦争や平和に関わる報道が流れていた。子供からみて別段面白いものでもなかったが、どのチャンネルを付けても同じような内容だったので漫然とみるほかなかったのである。
決まって「戦争は悲しいものであり、だからこそ平和を訴えねばならない」という、言い方は悪いが紋切り型の報道ばかりである。
報道とはなんぞやという問いの答えのひとつとして、「社会の日記をつけること」という回答がある。
社会では毎日、たくさんの人が生まれ、そしてたくさんの人が亡くなる。
大きな事件事故であれば報道されても、明るい話がニュースになることはほとんどない。総じて、報道とは人を暗い気持ちにさせることが多い日記だ。
8月ジャーナリズムもまた、人々に悲しみを想起させ、そして沈潜することを強いるものだ。決して明るいものではない。
考えてみれば、少し時間が経って冬にでもなると戦争や平和のことなど忘れてクリスマスの饗宴に身を委ねる人は多い。何ならわたしもそのうちのひとりである。
これは私たちが過ごす、輪郭を失った変わらない毎日のなかで、8月ジャーナリズムで取り上げられるような戦争や平和、そして3月に報道される天災のことなどをほとんど思わず生きている、ということでもある。
もっといえば、私たちはかなしみを忘れながらこの世界を生き続けている。それは、苦しい・悲しい出来事を覚えておくのは極めてつらいからだ。
苦しい出来事に常に向き合って、考え続けられるほど人間は強くない。悲しいニュースばかりが並ぶ報道をみて気が滅入ることは誰しもあるが、それは世の中に転がっている苦しみに向き合うことのしんどさそのものである。
苦しい出来事に向き合わざるを得ない当事者の声を伝えることで、そうした記憶に向き合わざるを得ない人がこの世界にいることを伝えることは、報道の一つの役割であるような気がする。
当事者ではない一人の視聴者からすれば、報道される出来事は他人事だとして片付けることができるのも事実だ。しかし仮にそうだとしてもほんの一瞬その苦しみを理解することで、自分以外の他者への思いやりや優しさを少しでも抱ける人が増えればと思う。