根拠のない自信のために自己陶酔を
努力が認められない経験というのは、社会に出るとよくあることである。
記者であれば(しかも上が言うとおりに)一生懸命取材をして出した原稿が、デスクを介してあら不思議、ゴミ同然の記事が出来上がるなんてことはよくある。
「最初から俺が書いたやつの方がよっぽどわかりやすいしまともだし原稿としての完成度も高い」と感じることは、一度や二度ではない。
記者人生の悲哀とは、ものわかりが悪く原稿を傷めがちなデスクに当たってしまうことでもある。
それはそうと、アブラハム・マズローという偉い人が考えた説で「欲求階層説」というものがある。
これは、人間の欲求は①から⑤の順に満たされていく、とする考え方だ。それぞれ、
①排泄や食事などの「生理的欲求」
②身の安全が確保された場所で生きたいとする「安全欲求」
③何らかのコミュニティに属していたいとする「所属欲求」
④人や自己による承認を求める「承認欲求」
⑤自分にとっての理想の人間像・やりたいことを求める「自己実現欲求」
という風に分かれている。
このうち、④の承認欲求というものがなかなかのくせ者だ。
詳しく調べてみると、人からの承認欲求(他者による承認欲求)と、自分が自分に対して行う承認欲求(自己による承認欲求)とがあるらしい。
最近ではSNS上で「いいね」とかを稼ぐべく、バズらせようと誰もが必死だ。
もちろん、企業のアカウントがバズるのを狙うのはマーケティングのためであり、ひいては企業利益の追求につながるから当たり前である。
ただ、これが単に人からの承認欲求を満たすためのものであるとき、そのうち承認欲求というのは乾いてしまう。子どもであれば親や先生が認め続けてくれることで己の自信につながるということはあるが、大人になれば「そんなこと自分でどうにかしてくれ」という話になる。
となると、大人になってしまえばいかに自己による承認欲求をバグらせておくかが大事ということになる。
具体的には「俺は最強だ」「きょうの私どちゃクソかわいくない?」と思い込むとか、そんな感じだ。
他人が何を言おうが、自分がそう思い込み続ける(もちろん、それを殊更に人に言う必要はないが)ということだ。一種の自己暗示に近い。
一見するとばかげたことに思うが、コレが意外に自分を支えてくれるときがある。
つらいときや大変なときに「でも俺、実は最強だからな…」などと犬も食わない異世界転生ものの小説よろしくありもしないことを思っていると、よくわからないが元気が出るときがある。
とんねるずの石橋貴明さんが「帝京高校野球部の秘密兵器と呼ばれ、ついに3年間秘密のまま終わった」という話をしていた(もちろんこれはネタである)が、まさにそんな感じだ。
あまり世の人からは好まれないが、実は「ナルシシズム」みたいなものって大事なのではないか、と思う。
ナルシシズムがあれば、努力を認められても認められなくても自分は最高の人間であると思えるからだ。
根拠のない自信で活き活きと生きられるのであれば、それを使わない手はない。
思い込みは人に迷惑をかけない限り自由である。
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